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今日、泣くために

「えいっ」て感じで手放している。

まるで文章が自分の体から離れていくようだ。すぐに知らない人から「スキ」をもらうと一層、そう思う。インターネットの広大な空間に埋れていくだろう。大量の文章が流れていくだろう。数分のうちに消費され、明日には忘れられていくだろう。そのひとつひとつに、託された思いがあっただろう。

そしてそれが毎日毎日、明日も繰り返されるだろう。

今日、泣くためにまた明日も会いましょう。

感情論でいい。読み捨てられるものでも良い。金字塔など打ち立てなくても良い。ただ、書くことを、書くことだけを、書き続けることを肯定する。それが流れゆく文章と、人々の幾千もの視線の間で共有されている。その運動に加わることを前までは切ないと思っていた。紙に印刷されて、多くの人のそばに寄り添い、死してなお残る文章じゃなくては意味がないと思っていた。それに憧れた。

書く事は、いつでもできるから、気がつけば書き始めていた。

不思議なことに、誰かに読まれる前に、自分のために書いているのに気がついた。自分の知らない自分、他の人に言えない自分、どうしても残しておきたい自分。毎晩毎晩、書き続ける日が続いた。いつの間にか、書くことに支えられてきて、今こうしてパソコンに向かって書いている。今度は誰かに読まれる文章を書いている。

ずっと自分のために書いてきたから、戸惑っている。どうして誰かに読んでもらうんだろう? まあ、その戸惑いさえも文章にしてしまえば良いと開き直っている。だってそれしか手元にないから。

自分のために書いていた自分が、言える事は「今日、泣くために書ければそれで良い」ということだ。自分が泣くために、落とし所がない気持ちを落とすために文章を書けば良いということだ。だから、誰に読まれなくたって書いてスッキリすればそれで良いのではないかと思う。そうやって書かれた文章は、少なくともあなたにとって素晴らしい。

落とし所がない気持ち。それは今日しっかり書き留めたい。明日になったら忘れてしまうのが嫌だから。どんなに小さくても、無かったことにされるのが嫌だから。だから、一番近くにいる自分が書いてあげる。そうすることで自分は救われるのではないだろうか。自分で自分を救うなんておこがましいけど、そうやってみじめに私は今日まで歩いてきた。今日の分の涙は、今日流す。明日泣いても意味がないから。

だから、ずっと残される文章は私に必要なかった。日記のように、今日書いて、明日忘れ去られる文章であればそれでよかった。

書いたそばから、文章は自分じゃなくなっていく。自分から離れていく。そういうふうな書き方をしている。無責任かもしれない。無責任であっても、今目の前にいる自分を一番大事にしたい。

だから、私はできる限り考えながら書く。常識とか、哲学とか、信念とか、正しさとか、素晴らしさとか、プライドとか、愛とか、全部、邪魔だ。

でも、それを知ってしまった自分だから、自分の持てる全ての常識と哲学と信念と正しさと素晴らしさとプライドと愛で、また何かを作ろうとするんだろう。

それが人間臭いってことかな。

書く人よ、今日ちゃんと泣いてください。そして、明日もまた泣きましょう。これからも、言葉と共に生きていきましょう。

今日泣くためにまた明日も会いましょう。

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たくみん
最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!

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