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きたがわ翔さんの『プロが語る胸アツ「神」漫画 』を読んだ感想

きたがわ翔さんの『プロが語る胸アツ「神」漫画 』という本(インターナショナル新書)を読んだ。

今日はその感想を書きたい。

内容は、タイトルそのままである。きたがわさんはプロのマンガ家で、彼が愛した胸アツの神マンガを語る——というものだ。ただし、思いの丈、愛の深さを語るというだけではなく、「マンガはなぜ素晴らしいか?」「『神』マンガはどう『神』なのか?」ということの解題と伝承にも取り組んでいる。だからぼくは、大いに興味を持って読んだ。なぜなら、ぼくにとっても「マンガはなぜ面白いのか?」ということは重大な関心事だからだ。

それがなぜぼくにとっての関心事なのか? 多くの人にとって、マンガというのは読んで面白ければそれで十分だろう。娯楽というのはそういうものだ。しかし、ときに感動があまりにも強すぎると、「面白い」を超越して、もっと得体の知れない感情が押し寄せてくる。自分を持って行かれるような、ある種怖いのだけれど、この上なくスリリングな体験をさせられることがある。

これを英語で「Mind Blowing」というらしい。直訳すると「気持ちを吹き飛ばされる」という意味で、日本語だと「魂消た(たまげた)」がぴったりくる。この言葉は、アニメ評論家の氷川竜介先生から教えてもらった。氷川先生は、アニメにおけるMind Blowingの構造について研究されている。確かにアニメにもそういう瞬間があるが、ぼくの人生においてはマンガでそれをより強く味わった。

だから、なぜマンガでMind Blowingが起こるのか——ということに興味が湧くのである。それは自分にとっては得体の知れない、訳の分からない体験だ。だから、その構造を解明したいと思うのである。それが、マンガを単に読んだだけでは満足しない理由だ。どうしても「なぜ面白いのか?」を解読したくなるのである。

1968年生まれのぼく自身の経験でいうと、小学校2年生の8歳のときに読んだ『ドカベン』(14巻)にMind Blowingさせられた。これは、ぼく自身が最初に体験したMind Blowingということで、一番記憶に残っている。

そういう体験をすると、普通はマンガ家になろうとする。なぜかといえば、マンガ家になればMind Blowingの理由が分かるのではないか——と考えるからだ。この構造に例外は少ない。実際、プロのマンガ家で「子供の頃にマンガにMind Blowingされた経験がない」という人は一人もいないだろう。

もちろん、きたがわ翔さんもその口だ。彼はぼくとほとんど同い年(1つ年上)で、似たようなマンガにMind Blowingされている。特に彼は『ドカベン』にもMind Blowingされたという。その意味で、同じ境遇同士なのだ。これは、興味を持たずにはいられない。

ちなみにぼくは、『ドカベン』にMind Blowingされても、マンガ家になろうとは思わなかった。それは、やがて他のいろんなコンテンツにもMind Blowingされるようになり、マンガ一つに集中できなくなったことと、Mind Blowingの構造自体に興味を持つようになったので、その本質を解き明かしたいと考えるようになったからだ。つまり、実践するよりも研究することの方に興味が向かったのだ。

その意味で、ぼくときたがわさんは同じ経験を経ながらも別の道を歩んだ。そのきたがわさんが歩んだぼくとは別の道に、ぼくはとても興味を抱いた。それが、この本を読むことの大きなきっかけとなった。

さて、前置きが長くなったが、ここからが感想である。まず大まかな感想を言うと、とても興味深いが、物足りないところが多かった。文章の多くが作品の紹介にとどまっていて、Mind Blowingが起こる構造にまでは突き詰められていないと感じてしまった。

きたがわ翔さんはTwitterを頻繁に更新されていて、そこでは時折マニアックな解説を試みている。そういうときの舌鋒は鋭く、ぼくの知らない新たな視点を提示してくれることもあって大変興味深い。それに比べ、この本はあくまでも新書なので、ぼくのようなマニアックなマンガファンではなく、何も知らない一般の読者を想定したのかもしれない。そのため、一言で言えば浅い内容にとどまってしまっている。

例えば、目次に「なぜ山田には両親がいないのか」という項目がある。これを読んで、ぼくはとても期待した。なぜかというと、水島新司の作品には、なぜか親のいない「みなしご」がたくさん出てくる。そのことの謎を解き明かしてくれるものと思ったからだ。

水島新司は、ぼくが知っているだけでも『銭っ子』『ドカベン』『野球狂の詩』『球道くん』などでみなしごをテーマにしている。『ドカベン』においては、山田以外でも、例えば殿馬の両親も出てこない。親の影がとても薄いのだ。

そういう設定が、『ドカベン』という作品の面白さとどう結びついているのか——ぼくはその考察を期待しながら読んでしまったのだが、残念ながら内容としては、作中で山田の両親が交通事故で死んだから、という記述にとどまっていた。

また、福井英一の描いた『イガグリくん』との共通点に言及しているが、ぼくはこれははっきり言って興味がなかった。なぜなら、『イガグリくん』はちょっとマンガの歴史を調べればすぐに分かる、『ドカベン』に先行する偉大な野球マンガであり、これをリスペクトしながらも越えていくため、あえてそっくりなキャラクターを登場させたというのは、比較的浅い読みでもすぐに分かるからだ。

ぼくがそれ以上に期待したのは、『ドカベン』と『銭ゲバ』との共通点だ。『銭ゲバ』はジョージ秋山の作品で、少年サンデーに1970年の13号から連載を開始した。一方の水島新司は、1970年の14号、つまり一週遅れとはいってもほとんど同時期に『銭っ子』という、きわめて似たタイトルの、しかも似たようなテーマの作品を発表していた。だから、水島がこれを知らないわけはないし、同時期にサンデーに『男どアホウ甲子園』を連載しているので、読んでいないということも考えられない。

しかも、ここからが実に興味深いのだが、『銭ゲバ』の内容は、水島新司が大好きそうな「みなしご」の話なのである。そして、さらに驚くべきことには、『銭ゲバ』の主人公は蒲郡風太郎というのだが、この人物の風貌と喋り方が『ドカベン』の殿馬一人そっくりなのである。あの「ずら」という特徴的な話し方を、殿馬は蒲郡から受け継いでいる。そのため、殿馬はまるで蒲郡の生まれ変わりだ。今でいうと「転生もの」で、水島は生まれ変わったが蒲郡を『ドカベン』で描いていると言ってもいいほどなのである。つまり、大袈裟かもしれないが、『ドカベン』は『銭ゲバ』の二次創作ともいえるのだ。

「水島新司はなぜそんなものを描いたのか」ということに、ぼくはとても興味がある。だからぼくは、きたがわさんには『イガグリくん』から受け継いだ精神よりも、『銭ゲバ』からどう精神を受け継いだかについての意見を聞きたかった。

ただし、これを知りたいのはマニアだけというのも分かっている。『ドカベン』さえ読んだことのない一般の読者が、いきなり『銭ゲバ』の話をされても戸惑うだけだろう。だから、この本はこれでいいのだ。ただ、ぼくはきたがわさんのもっとマニアックな本を読みたかった。これは正直な感想である。

追記:この記事をアップした後に、『ドカベン』に出てくる賀間剛介(がまごうすけ)も、蒲郡風太郎(がまごうりふうたろう)の転生だと気づいた。蒲郡風太郎が二人いる世界。なんてマンガだ。

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