「将棋と哲学」糸谷哲郎
毎月の文芸春秋で、巻頭に各界の著名人の投稿文が記載されているが、最新の8月号では、将棋棋士、糸谷哲郎氏の投稿「将棋と哲学」が興味深い。
糸谷哲郎氏は1988年生まれの35歳、早見え早指しで知られ、各棋戦で活躍する一流棋士の一人だ。2006年に四段に昇段してプロ入り、14連勝してその年の連勝賞、新人賞を受賞した。
ところが、翌2007年に、なんと、名門国立の大阪大学文学部に合格。藤井聡太君が将棋に専念したいと、卒業直前の高校を中退したのとは好対照だ。糸谷氏は大学の哲学・思想文化専修に所属し、卒業後はさらに大学院に進学した。その間も将棋ではタイトル戦に絡む活躍を続け、こともあろうに、大学院在学中に将棋界最高峰のタイトル「竜王」を奪取した。流石に一時休学したが、その後復学して2017年に修士課程を修了、大阪大学修士(文学)の学位を授与される。研究分野はマルティン・ハイデガーの哲学・・・・だそうだ。
彼の父親は東京大学工学部卒、中国電力で原子力系のエンジニアだったそうだし、母方の祖父はマルクス主義経済学の大学教授だったとか。両者を受けついで、ものの考え方、方向性を組み立て、それを精緻に解析して理論付けする、そういった血筋、家庭環境だったのかもしれない。
以下、糸谷氏の文の一部抜粋する・・・・
(将棋の)実践において一番初めに思い浮かべた手では上手くいかないと気付き、局面を読み直す必要に迫られたときには、私はまず直感を一旦放棄する。・・・現局面で損にならなそうな手をいくつか意識的にピックアップするのである。そして先ずはそれらの手をさせばどのように進むかを愚直に読み直す。それでも上手くいかなそうならば、・・・局面の有利・不利の構成要素の分解を始め、・・・
この直感を捨てて読み直すと言う行為は、考察する対象への視点を一旦オフにする、もしくは多重の視点から見ることによってよりよく対象を知ろうとする哲学的営みに近いのではないかと思っている。
将棋に限ったことではないかもしれないが、こうして自分の思考を広げていき、より多くの視点を獲得することにより、対象への「誠実」なアプローチを感じる。
もっとも、より多くの視点を得たからと言って将棋が面白くなることやより深く読めるようになることはあっても、必ずしも勝てるようになるとはかぎらないのはご愛敬である。それは哲学を考える上で知識の増加が必ずしも良いこととは限らないのと同じかもしれない。
・・・・たかが将棋、されど将棋なのである。