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ベッド上のみでのリハビリテーション

 ひとは20歳代、または30歳代を期に身体機能はピークから徐々に下降していく。それに加え、または伴い、認知機能も減衰していく。その右肩下がりの度合いが緩やかだったり、急降下だったり、そのスピードは人それぞれである。実際、90歳を超えてもフィットネスクラブで友人とお話ししながら時速3kmのトレッドミルで歩いている方やプールで泳いでいる方もいるし、一方で70歳前後で入院生活となり、身体活動量が落ち、口数が減り認知機能が衰える方もいる。

 前者は疑う余地もなくスーパー健康おじいちゃん/おばあちゃんである。ついつい「健康の秘訣は?」とありきたりな質問をしたくなるが、いや、実際にフィットネスクラブで働いていた時分には何度もしてきたが、返ってくる言葉は、正直あまり参考にならない。とにかくすげえ。


 一見すると、この比較は、ひとの「光と陰」に思えるかもしれない。

 しかし、それは全くの誤りである。後者の場合、遠目で見ても分かる凄さこそないが、近くで実際に接すると心揺さぶられるものがある。

 その方が入院している期間、頻繁に家族が訪問にいらっしゃる。週をまたぐごとに、部屋に飾られる写真や思い出のアルバムが増える。私たち20歳代の「若僧、青二才」のスタッフに対しても丁寧に接してくれる。このような様子を見ると、その方が実際より大きく、偉大に感じる。特に、このご時世、病院では、コロナウイルスの感染・拡大防止対策のため面会制限を設けており、院外から足を運んだとしても直接会うことができない。その中でも、そのような支えてくれる人が患者さんの後ろにいることは、その方がこれまで歩んできた道の象徴だ。これまで与えてきたものが、帰ってきているのだろう。
 "It is more blessed to give than to receive." と聖書にあるように、その方が多くを与え、支えて来られた姿を想像すると尊敬を通り越し、畏敬の念に駆られる。自分の内側にそのような心を持つと、自然と扱う言葉は柔らかく丁寧になる。そして、お身体に触れる手も温かくなり安心をもたらすことが出来ると信じている。また、ご高齢の方と、一対一で接することは貴重な時間である。普段の生活では滅多にない。医療の対象となる世代は順番である。いつ自分自身が受ける側に回るか分からないし、いつかはなる。その時に、今接している患者さんの様に自分が振る舞える為に、与える気持ちを日々持っていようと思う。

 つい先日、こんな会話をした。
「患者:あなたは関西出身だって言ってたけど方言が出ないねえ」
「私:関西に帰ったり、今でも気持ちが緩んだ時についつい全然出るときはありますよ。敬語で会話してる間は、まずでないです。」
「患者:そうだろうね。でも最近は関西でも、前ほど方言で話すこと自体少なくなったんじゃない?」
「私:確かにそんな風潮はあるかもしれないです。生まれてから今まで地元で過ごしてきた!っていう人は数少ないと思います。」
「患者:あなたよりもっと若い子なんて方言話さないでしょ。」
「私:そう言われるとそうですね。最近は幼稚園から英語を習っているそうですよ。和訳するときは方言使えないですからね。そいのせいもありますかね。」
「患者:はは、確かにそれはそうだね。色んなことに今は触れられるからね。昔とは大違いだ。」
「私:色んなことに触れすぎて、一周して標準語に落ち着いてるのかもしれないですね。将来方言話す人は少なくなると思います。むしろ、私が〇〇さんの年齢になっている頃には英語が標準語になってて、こうやって会話できなかったらどうしようと思いますよ。」
「患者:そんな時代が来るかもねえ。」
 たわいも無い会話だが、こうやってnoteで自分の意見を発信できることやオンラインで情報を得られる私たちにとっての当たり前は、今のご高齢の方からは想像も付かなかったのだろうなと実感する機会となった。また、その様な時代から、将来に向けこんな現代を見据えて動いていた先駆者がいたのだという気付いた。私たちの未来もどの様になるか見当もつかないが、創造し前進あるのみである。
 また、毎日リハビリを提供しているが、気付かされることの方が多いことにまだまだ青二才だと自分でも思う。起業に向け、どこに需要があり、何を供給するかに目を凝らしている。

 自分が「与えている」と実感できる日がとにかく待ち遠しい。

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