零ではない無を知り、そして一を知る。
2/13 こころセラピスト講座 般若心経編 vol.11
私達のこの世の中は相対の世界。
相反するものが存在する。
好きと嫌い。
光と影。
高いと低い。
自由と不自由ーーー。
何かの対象があって
それとは反対のものがある。
そしてそれらは片方だけでは存在できない。
至極当たり前で、
だけどあまりに近すぎて
殆ど考えたことすらない事実。
一方、
相対と相反するもの。
それが絶対。
はて。
絶対とは何なのか。
文字通り、
『対がない』とでも言うべきか。
私達は、この世の中に
「絶対」が存在すると思えているだろうか。
「ずっと一緒に居ようね、絶対だよ」
そんな言葉がとても陳腐に聞こえるのは、
絶対なんてある訳ないじゃん!と
経験上思うからかもしれない。
(かなりのポジティブシンキング
の持ち主ならば或いはだが)
とにかく。
絶対とは、絶対。
それしかない、ということ。
仏教では、
私達のいる相対の世界を抜けると
絶対の世界というものが存在し、
そこには幸せが広がっているという…
相対を抜ける、超える、とは一体…?
運命と自由は両立できるか?
こころセラピスト講座(通称ここセラ)の入門編で、
上のような問いがあったような気がする。
そんなこと普通に考えてできなくね?というのが感想。
そもそも無理でしょ。
運命は運命、そう決まっている仕方のないこと。
自由は自由、好きなこと好きなようにできるって話。
そんなの両立できっこない。
決まってるんなら好きなようになんかできやしない。
でもどうやらできるらしいのだ、それが。
一体どういうことなのか。
そんなのただの理想論でしょ?
まぁそんな世界があればそれは素晴らしいよね。
でもそんな素晴らしい世界が、どうも存在する様子。
しかも決して別次元の話なんかじゃなく
私たちのいるこの世界で。
私たちは全てを分けて考えている
私たちは、
知らず知らず全てのものを分けて考える。
私とあなた。
あなたと誰か。
私と服。
机とコップ。
空と雲。
分けて考える?
何言ってんだろうって思うかもしれない。
当たり前すぎてなんのことかわからないだろう。
別々のものなんだから分けるも何も
そもそもが別物でしょう?と。
それは確かにそう。
私の体と服が一緒なら一体化して脱ぎ着はできないし
机とコップが分かれてなければ動かすことはできないし。
ただこの場合の「分ける」とは、
「一体化していない」ということとは違うのだ。
めちゃくちゃ簡単に言ってしまうと
「この世にある全てのものは、
それただ一つで存在できるものがないから分けて考えられないよ」
ってことが言いたいんだけど。
それをしっかりと納得するにはもう少し説明が要ると思う。
まぁ、そこは割愛するけど。
自由とは
私たちが普通に考えている「自由」と
絶対の世界の「自由」。
どうやらこれは、決定的に違うようだ。
自由って何だと思う?
何にも縛られず、
なんでも選べて、
好きなようにできる。
私たちが思う自由ってそんな感じじゃない?
言ってみれば「解放」というのが近い気がする。
だけど、どうやらそれは
「自由」とは言わないようなのだ・・・
私たちの求める自由
私たちは自由になりたいと思っている。
普段、不自由だと思っているからだろう。
そうだよね、なんでも自由になんてできない。
オトナならなおさらその辺の分別はあるだろう。
それは仕方ないこと。
ある意味運命と同じか。
自由を求めても完全な自由なんて得られる訳はない。
だからどこまで行っても不自由。
そんなの楽しいわけも、幸せなわけもない。
ただただ仕方ないだけで。
でもそれは私たちが
「自由」と「不自由」を分けているからなのだ。
それが究極の理由。
いつも1つなのは真実だけではない
先に書いた
「私たちは全てを分けて考える」
実はこれが
私たちの苦しみのそもそもの原因である。
この世の中は全てが一つ。
本来は分けることができない世界。
なのに私たちは分けて考えることを
当たり前の価値観として生きてきた。
本当は、
あなたと私も分けられない。
あの雲と私も分けられない。
分けられないということは、
全てが一つだということ。
実際は分けられないと端的な言い方するのも
本当に適当とは言い難いけどね。
そしてここをサクッと書いてしまうことによって
それこそとっても陳腐な内容になってしまうな。
その感覚にたどり着く過程が
心の大元を創り上げる上でとても大切なのだけど。
でもこの感覚がわかってきたら
運命と自由が両立可能だということも、
不自由なんてない絶対的な自由があるということも、
なんとなくわかってくると思うのだ・・・
無記ということ
言葉って
曖昧で、紛らわしくて、難しいと感じる反面、
なんの固定観念も先入観もなしに考えてみれば
本当によくできているものだなとも思える。
実際そのままを現しているのだ、言葉は。
それを勝手に解釈しているのはこっちの問題であって。
勝手に難しくしちゃっているのだよね。
善も悪も記しをつけない「無記」。
そう、本当に全てはそもそも無記なんだよな。
ただただそのまま、ありのままなのに
勝手に良し悪し決めているのは私たち自身。
そもそも善も悪もないのよ。
・・・『絶対』、なんだもの。
圧倒的な自由
本来の意味での「自由」とは何かを知る。
本来全ては分けられない「一つ」であることを知る。
それに気がつくことができれば、
私たちは本来、圧倒的な無限の自由の中にいる
(いや、自由の中というよりも
私たち自身が自由であるというべきか)
ということが実感できてくる。
今回、2クール目の般若心経編11回目くらいまで聴いてきて
最近やっとその「壮大な自由」
のようなものが感じられてきた気がする。
日常ではまだ無理だけど、
自由って?と立ち止まって考えた時
私、圧倒的に自由なんだな・・・と実感する。
それは、本当に物凄い自由。
それを考えると、あまりの壮大さに
胸が苦しくなるほどの
感動に似た気持ちに襲われる。
もしかするとこれが
度々ここセラの中で言われる「バカボンド」の一節の
とあるシーンに近づいている感覚なのかもしれないと思う。
まだ全然程遠いのかもしれないけど。
でも私たちは不自由なんかじゃないんだ。
いや、不自由であることを知るからこそ
自由であることに気がつくことができるのか。
まだその辺り納得できてはいないみたいだけど
それはどちらでもいい。
私たちは、圧倒的に自由だ。