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【近現代ギリシャの歴史8】混迷する戦間期のギリシャ
こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第8回目です。
前回の記事はこちらから!
第一次世界大戦中、首相ヴェニゼロスと国王コンスタンディノス1世の対立によって生じた国家大分裂。その余波は戦後にも影響を及ぼし続けました。それに加え、1929年には世界恐慌が発生し、ギリシャは危機的状態に陥っていきます。今回は第一次大戦後から第二次世界大戦直前までの戦間期のギリシャについて見ていきたいと思います。
1.反ヴェニゼロス派の粛清
1919年から始まったギリシャ・トルコ戦争は、小アジア西部の港湾都市スミルナの陥落を持って、ギリシャの惨敗に終わりました。この戦争は当時首相であったエレフセオス・ヴェニゼロスによって開始されたのもでしたが、敗戦の責任は、1920年の政権交代によって実権を握っていた王党派に帰せられることになりました。
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小アジアを訪れた際の写真。前列左から3番目が首相ディミトリオス・グナリス。
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1922年9月、ニコラオス・プラスティラス大佐率いる将校グループによるクーデターが発生しました。プラスティラスはヴェニゼロス派であり、実権を握るとただちに国王コンスタンディノス1世を退位させ、さらに軍法会議を開催し、首相ディミトリオス・グナリスをはじめとする6人の政治家・軍人が国家反逆罪の嫌疑をかけました。協商国はこの裁判に抗議したものの、結局被疑者全員が銃殺刑に処されました。
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1922年クーデターの首謀者。その後1950年代まで政治家として影響力を持ち続けた。
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この事件によって、ヴェニゼロス派と王党派の対立はますます先鋭化し、論争は君主政の是非にまで及びました。1924年4月には国民投票が行われ、7割の賛成をもって君主政が廃止されることが決定しました。父の跡を継いでいたゲオルギオス2世はただちにイギリスへ亡命し、ギリシャは共和制へと移行しました。しかし、これで両派の対立が終息したわけではなく、「国家大分裂」の図式は根強く残り続けました。
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わずか2年で廃位され、その後12年間をイギリスで過ごすことになる。
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2.難民問題
1923年1月、ギリシャとトルコの間では、領土問題の最終的解決として、住民の強制交換に関する協定が結ばれました。この結果、トルコからギリシャへ110万人のギリシャ人が、ギリシャからトルコへ38万人のトルコ人が強制的に移住させられました。ただし、このときにどの民族であるかという基準は宗教とされたため、トルコ語しか話せない正教徒が移住の対象となり、ギリシャ人としての民族的意識を持つイスラム教徒は対象外とされるなど、様々な矛盾を引き起こしました。
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スミルナからやってきた難民が定住したアテネ郊外は「ニュー・スミルナ」と呼ばれた。貧困に苦しむ彼らは、後に共産党の支持基盤となっていった。
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同様の協定はブルガリアとも結ばれており、ブルガリアに住むギリシャ人はギリシャへ、ギリシャ領内のマケドニアに住むスラヴ人はブルガリアへと強制移住となりました。また、1917年に起きたロシア革命から逃れるため、「ポンドスのギリシャ人」と呼ばれるウクライナやジョージアの黒海沿岸に住んでいた人々の一部も、ギリシャ領へと亡命していました。ブルガリアとロシアからの難民も、数十万人に上りました。
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オスマン帝国の黒海沿岸地域に住んでいた「ポンドスのギリシャ人」は、ギリシャ独立戦争以降、その多くが陸続きの隣国ロシアへと移り住んでいた。
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ギリシャ政府は、こうした難民を、新しく獲得した領土であるマケドニアへと定住化させる政策をとり、免税特権や就業機会拡大などの優遇措置をとりました。もともと多様な民族が共生していたマケドニアは、この時期を通してギリシャ人が多数派を占める地域となっていきました。しかし、難民の大半はトルコ語しか話せないか、話せたとしてもポンドス語という本国人には全く通じない方言か、日常生活ではほぼ使用されないカサレヴサだったため、彼らがギリシャ社会に適応するには長い時間を要しました。
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マケドニアの主要港湾都市テッサロニキは、もともとユダヤ人が多数派を占める町であったが、難民定住政策の結果、1920年代後半には、ギリシャ人とユダヤ人の比率は逆転する。
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3.ヴェニゼロス最後の政権
1922年のクーデター以降、ヴェニゼロス派は巻き返しを図りますが、王党派との対立だけでなく、ヴェニゼロス派自体が分裂してしまったこともあり、ギリシャの政治情勢は全く安定しませんでした。1928年の総選挙では、多数派に有利なるよう選挙制度が操作されたため、ヴェニゼロス派は46パーセントの得票率にも関わらず、9割の議席を獲得することができました。ここから4年半の間、ヴェニゼロスによる最後の長期政権がスタートします。
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国家大分裂をもたらしたヴェニゼロスは、後に「ギリシャの半分にとっては救世主、残りの半分にとっては悪魔」とも評された。
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ヴェニゼロスの手腕が発揮されたのは、やはり外交政策においてでした。ヴェニゼロスはこれまでの方針を180度転換し、領土拡張政策を放棄し、現状の国境を維持することが、ギリシャの国益になると考えました。また、1923年に、イタリアがギリシャ領コルフ島を攻撃したことに対し、国際連盟がなんら制裁を科すことができなかったことから、西欧の大国に自国の運命を委ねるのではなく、近隣諸国との集団安全保障体制を構築する必要性を感じるようになっていました。
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1923年のコルフ島への攻撃は、ギリシャ・アルバニア国境画定の際の調査メンバーに加わっていたイタリア人が、ギリシャ領内で殺害されたことへの報復であった。
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この時期のヴェニゼロスの外交政策における最大の業績は、仇敵であったトルコとの関係改善です。1930年、ヴェニゼロスは、ムスファタ・ケマルとアンカラ協定を結び、双方の国境線を承認し、東地中海における海軍力の均衡を保つことを確認しました。また、1930年から3年間、バルカン会議を開催し、トルコを含めたバルカン諸国による同盟関係を築こうとしました。この試みは、1934年のバルカン協商へとつながっていきます。
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バルカン協商には、ギリシャ、トルコ、ユーゴスラヴィア、ルーマニアが加盟した。ギリシャとユーゴスラヴィアに対し領土問題を抱えたブルガリア、およびイタリアの影響下にあったアルバニアは非加盟となった。
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4.世界恐慌と王制復古
外政面では輝かしい業績を上げたヴェニゼロスでしたが、内政面では混乱した状況が続きました。就任当初は、穀物自給率の向上を達成し、世界第三位の工業成長率を記録するなどの農業・工業の振興に努めました。しかし、1929年に世界恐慌が発生すると、ギリシャもこの影響を受け、1930年と31年には深刻な財政危機・経済危機に直面しました。ヴェニゼロスはこれに対し何ら有効策を講じることができず、労働者層からも企業家層からも見放されるようになっていきました。
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経済を干しぶどうとタバコの輸出、移民労働者からの送金に支えられていたギリシャは、米国での不景気と各国のブロック経済の形成に大きな影響を受けることになった。
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ヴェニゼロス派の失速に伴い、今度は王党派が息を吹き返し、1933年の選挙では、君主制を支持する人民党が勝利しました。粛清を恐れたヴェニゼロス派の軍人は、1933年と35年に二度のクーデターを試みますが、いずれも失敗し、クーデターに関わった60名の政治家・軍人に死刑判決が下されました。その中には、ヴェニゼロスも含まれていましたが、刑に処される代わりにパリへと亡命し、その地で一生を終えることになります。
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1936年、ヴェニゼロスは帰国の願いもかなわずパリで没した。遺体はアテネへの受け入れを拒否されたため、出身地であるクレタのアクロティリに埋葬された。
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政権を獲得した王党派は、ヴェニゼロス派の粛清を進め、多くの軍人や市民が公職から追放されました。さらに、1935年10月には国民投票が行われ、97パーセントの支持を持って、共和制の廃止と王制復古が宣言されました。翌月、亡命していたゲオルギオス2世は12年ぶりにギリシャへと帰国し、国王へと再即位しました。
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急進的な王党派だったコンディリス将軍は、王制復古の立役者であった。
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5.独裁政権の樹立
1936年に行われた選挙では、ヴェニゼロス派と王党派が拮抗してしまい、さらに、15議席をギリシャ共産党が占める事態となりました。議会が手詰まりとなり、共産主義勢力が拡大する中、国王が介入し、共産党よりもさらに少数派であった極右政党の党首イオアニス・メタクサスを首相に指名します。メタクサスは国家大分裂以来の筋金入りの王党派であり、国王は彼に事態解決を任せたのでした。
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同年8月、メタクサスは共産党が組織したゼネスト阻止を口実に、非常事態宣言を発して、憲法の一部条項を停止し、無期限に議会を解散しました。ここに「1936年8月4日体制」とメタクサス自身が呼んだ独裁体制が樹立します。メタクサスは監視体制を強化して警察国家化を進め、左翼や共産主義者を徹底的に弾圧しました。また、「第三ヘレニズム文明」というスローガンを掲げ、民族青年団を組織するなど、ナチス・ドイツを模倣した体制作りを進めました。
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しかし、メタクサスの独裁体制は、ファシストのそれとは似て非なるものでした。メタクサスはヒトラーのようなカリスマ的指導者というよりも、「第一の農民」「第一の労働者」と自称したようにポピュリスト的でした。長い政党政治の混乱に疲れていた国民はメタクサスを消極的に支持し、ヴェニゼロス派が強い基盤を持つクレタで暴動が起きた以外は、体制への反発は見受けられませんでした。
6.まとめ
第一次世界大戦中に起きた王党派とヴェニゼロス派の対立は、1930年代半ばまで続き、ギリシャの政治を大いに混乱させ、そして、その先にあったのはメタクサスによる独裁体制への帰着でした。こうした議会での勢力対立の先鋭化と、その結果としての独裁体制樹立は、当時のヨーロッパ、特にバルカン諸国でよく見られた現象です。この時期の政治情勢を見ると、改めて民主主義を正常に動かすことの難しさを感じます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主な参考
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