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コンスタンティノープルの象徴 ハギア・ソフィア大聖堂

1.はじめに

ハギア・ソフィア大聖堂(ハギアは「聖」、ソフィアは「叡智」を意味する古代ギリシャ語。現代ギリシャ語ではアギア・ソフィア、トルコ語ではアヤ・ソフィアとなる。聖ソフィアとも訳される)は、ビザンツ帝国時代に建築された聖堂で、かつてはコンスタンティノープル総主教座が位置し、さらに皇帝の戴冠式などの様々な行事が執り行われるなど、まさに帝国を象徴する宗教建築でした。今回は、ハギア・ソフィアがたどってきた歴史を見ていきたいと思います。

2.ハギア・ソフィア誕生の経緯

ハギア・ソフィア大聖堂は、正式名称ハギア・ソフィア総主教座聖堂として、360年にコンスタンティウス2世によって建てられました。当時は木造であったため、404年に火災で焼失し、415年にテオドシウス2世によって再建されました。しかし、この2代目聖堂も532年に焼失し、537年に現存しているハギア・ソフィア大聖堂として建立されました。つまり、現在の大聖堂は3代目ということになります。

ハギア・ソフィア大聖堂
現在壁面は赤身を帯びているが、時代によっては黄色だったり、縞模様だったりする
By Arild Vågen - Own work, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24932378

この3代目のハギア・ソフィアを建造したのは、皇帝ユスティニアヌス1世です。ユスティニアヌスは、かつての古代ローマの領土を取り戻そうという野心を持ち、対外戦争に明け暮れていました。度重なる戦争と戦費を調達するための重税に市民の不満が高まり、さらに政府高官の人事や市民への弾圧に対する反発から市民暴動が勃発しました。これを「ニカの乱」といいます。市民たちは大宮殿やその周りの公共施設に火をつけて回り、略奪を行いました。こうした暴動の中で、2代目ハギア・ソフィアも焼け落ちてしまいます。

ユスティニアヌス1世(中央)と廷臣たち
皇帝の左に立っている人物は将軍ベリサリウスと思われる
イタリア・ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画

ニカの乱により、ユスティニアヌスは廃位寸前まで追い込まれますが、皇后テオドラに激励され、暴動の鎮圧に乗り出します。将軍べリサリウス率いる軍隊は見境なく群衆を攻撃し、3万人の市民を虐殺しました。ユスティニアヌスは帝位にとどまりましたが、市民の第一人者であるはずの皇帝が、市民を虐殺した罪は簡単に見過ごされることはなく、ユスティニアヌスは市民からの支持を回復する必要に迫られました。

そこでユスティニアヌスは、古代ローマの皇帝たちに倣い、公共事業によって市民たちの支持を得ようとしました。聖エイレーネ―教会や聖使徒教会など伝統ある教会の補修・再建とともに、焼失したハギア・ソフィアの再建がこの事業の目玉とされました。

ハギア・ソフィアは、5年11か月という驚異的なスピードで建てられました。その竣工式において、感極まったユスティニアヌスは、自らをイェルサレム神殿を建設したソロモン王になぞらえて、「ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだという逸話が伝わっています。

3.ビザンツ帝国時代

当時の聖堂はバシリカ様式という、壁は垂直、上から見ると長方形で細長い形状が主流でしたが、ハギア・ソフィア大聖堂は巨大なドーム屋根アーチ状あるいは半ドーム状の壁を特徴としていました。こうした建築物は先行するモデルがなく、またビザンツ時代にはハギア・ソフィア大聖堂を模した聖堂が建てられることもなかったため、非常にユニークな建築物でした。

ハギア・ソフィアのドーム(内部から)
四隅には天使をかたどった壁画が描かれている
By michael clarke stuff - Hagia Sophia 08, CC BY-SA 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24327119

ハギア・ソフィアのドームは、直径31メートル、高さは地上41メートルにもなり、16世紀にセビーリャ大聖堂やセリミイェ・モスクなどが建築されるまで世界最大の建築物でした。

その内部は、非常に多くのモザイク画で飾られていました。聖堂の東端はアプシスと呼ばれる聖域とされており、この聖堂の最も重要な場所には、聖母子のモザイクが描かれています。このモザイクは、8世紀~9世紀渡って起こった聖画像論争が終息した直後に奉献されたものと言われています。

アプシスの聖母子像(870年頃)

聖堂2階南ギャラリーには、審判者キリストに、聖母マリアと洗礼者ヨハネが人類の罪を許すようとりなすデイシスと呼ばれる場面が描かれたモザイクがあります。この作品はビザンツ帝国後期に作成されたものですが、ビザンツ美術史上最高傑作のひとつであり、平坦で立体性に欠ける伝統的なイコンとは異なり、イタリア・ルネサンス期の作品のような写実性があります。

デイシスのモザイク画(1260年頃)

また、聖堂内には、アブラハムが天使をもてなしたテーブル、ノアの箱舟の扉、イエスが架けられた十字架など、数多くの聖遺物が展示されていたと伝えられています。こうした聖遺物のもたらす奇跡、主に病の癒しの効果にあやかろうと、コンスタンティノープルを訪れる巡礼者たちは、到着すると真っ先にハギア・ソフィア大聖堂に足を運んでいました。

4.ハギア・ソフィアとルーシの改宗

988年、キエフ・ルーシはビザンツ帝国からキリスト教を導入し、国教に定めました。当時の大公ウラジーミル1世の改宗については、次のようなエピソードが伝えられています。

ウラジーミルは各国に使節団を派遣し、各宗教の長所・短所を調べさせ、どの宗教・宗派に改宗するのが最も良いか決めようとしました。ブルガール人のもとから戻った使節団は、イスラームのモスクの礼拝は悲しみと酷い悪臭しかなく、ドイツに赴いた使節団はカトリックの勤行には美しさがなかったと述べました。これに対し、コンスタンティノープルから戻った使節団は、壮麗なハギア・ソフィア大聖堂とそこで行われる荘厳なビザンティン典礼に驚き、彼らは自分たちが天上にいたのか、地上にいたのかわからず、ギリシャ人の勤行は他のいかなる国のものよりも優れていると報告しました。こうしてウラジーミルはギリシャ正教への改宗を決心しました。

このエピソード自体は後世の創作と考えられていますが、当時のルーシの人々が、いかにハギア・ソフィアやビザンティン典礼の美に憧れを抱いていたかを示すものであると言えます。このことは、改宗後のルーシがキエフ、ノヴゴロド、ポロツクといった主要な都市に、ハギア・ソフィアにちなんで、同名の聖ソフィア大聖堂を建立していることからも伺えます。

ウクライナの2フリヴニャ紙幣に描かれたキエフの聖ソフィア大聖堂
現存する建物は18世紀に再建されたもので、こちらはオリジナルを再現したもの

5.オスマン帝国時代

1453年、スルタン・メフメト2世率いるオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。メフメト2世は、市内に入ると真っ先にハギア・ソフィア大聖堂に向かい、ここをイスラムのモスクに改築するように命じました。

大聖堂には4本のミナレットが建てられ、隣接する総主教宮殿が取り壊された代わりに、トルコ王室の墓所が建築されました。内部ではイコンはすべて撤去され、モザイク画は漆喰で塗り固められました。代わりに、アラビア文字が刻まれた円盤が天上から吊り下げられ、メッカの方向を示すミフラーブが設置されました。

ハギア・ソフィアのミフラーブ
By Dennis Jarvis from Halifax, Canada - Turkey-3052, CC BY-SA 2.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=67012232

ハギア・ソフィア大聖堂をモデルとした聖堂を建てなかったビザンツ帝国に対し、オスマン帝国では、コンスタンティノープル陥落直後に建てられたファティフ・ジャミイ、ビザンツの大宮殿跡地に建造されたスルタンアフメト・ジャミイ(通称ブルーモスク)、オスマン帝国全盛期を築いたスレイマン1世の命で建立されたスレイマニエ・ジャミイなど、大ドームを持ち、ハギア・ソフィア大聖堂によく似たモスクが次々に建築されました。

スルタンアフメト・ジャミイ
ジャミイとはトルコ語でモスクのこと

なぜトルコ人がハギア・ソフィアをモデルとしたモスクを建築したのか、はっきりとした理由はわかりません。7世紀に登場して以降、イスラーム勢力は度々コンスタンティノープルに挑戦し、1453年までに大規模なものだけで10回にも及ぶ包囲戦を仕掛けていました。ハギア・ソフィアはコンスタンティノープルの象徴であり、ハギア・ソフィアに似通ったモスクを建造することは、名実ともにルーム(アラビア語でローマ、ビザンツ帝国のこと)を征服した証だったのかもしれません。

6.まとめ

中世最大の宗教建築であるハギア・ソフィア大聖堂の壮麗さは、異教徒であったルーシを改宗へと導き、敵対していたイスラームが、手に入れるだけでなく、それに匹敵するものを自らの手で建てたいと思うほどの魅力を持っていたと言えます。

オスマン帝国解体後の1934年、トルコ共和国大統領ケマル・アタテュルクは、ハギア・ソフィアをモスクとして利用することをやめ、宗教性をもたない文化財とすることを決定しました。これ以降、ハギア・ソフィア大聖堂は「アヤ・ソフィア博物館」として一般公開され、さらに、モザイク画を覆い隠していた漆喰がはがされるなどの改修がなされました。1985年には、「イスタンブール歴史地区」としてユネスコの世界遺産にも登録されました。

しかし、2020年7月、宗教的保守派のエルドアン大統領のもと、ハギア・ソフィアを再びモスクに戻す決定がなされました。これに対し、ギリシャやロシアの正教会から非難の声が相次ぎましたが、決定は覆らず、ハギア・ソフィアは大アヤ・ソフィア聖モスクとしてイスラームの礼拝所となり、同月24日には集団礼拝が行われました。

この決定がどのような結末をもたらすのかはまだわかりませんが、ハギア・ソフィアからキリスト教的要素が排斥されたり、文化財的価値が損なわれるのではないかということが懸念されています。

最期まで読んでいただき、ありがとうございました。

参考

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