【歴史学の歴史1】古代オリエントと歴史記述のはじまり
こんにちは、ニコライです。今回から新連載【歴史学の歴史】がスタートします。
歴史学は人間の過去を扱う学問ですが、それ自体にも非常に長い歴史があります。今回は、歴史学がどのように成立してきたのか、どんな変遷をたどってきたのかということから、歴史学とはどのような営みなのかを考えていきたいと思います。
第1回目となる今回は、歴史学誕生以前のお話で、そもそもいつ、そしてなぜ人類は歴史を記録するようになったのか、というテーマを取り上げます。人類最初の文明が興ったのは、現在の中東やエジプトに当たる古代オリエントにおいてですが、この時代にすでに歴史を記述するという文化が生まれていました。今回は、古代オリエントにおいて、どのように歴史記述がはじまったのかを見ていきたいと思います。
1.文字と暦の発明
歴史を記録するためには、当然それを書き記すための文字が不可欠です。古代オリエントでは、主に2つの文字体系が存在していました。1つは、メソポタミアで広く使われていた楔形文字です。これはもともとはシュメル語を記述するために発明された文字でしたが、その汎用性から他の民族によって借用され、アッカド語、ウガリト語、エラム語、古代ペルシア語、ヒッタイト語など様々な言語を記すのに使用されました。
もう1つは、エジプトで発達した象形文字である神聖文字(ヒエログリフ)です。人や動物の形をした神聖文字は、複雑で書くのが大変だったため、時代が下ると、神聖文字を書き崩した神官文字(ヒエラティック)、さらに簡略化された民衆文字(ディモティック)も考案されました。
歴史を記述する際は、「〇〇年××月△△日」という風に年月日を、せめて年だけでも記載する必要があります。そこで重要になってくるのが暦です。古代オリエントでは、太陰暦と太陽暦という2種類の暦が使われていました。月の満ち欠けの周期に基づく太陰暦はメソポタミアで採用され、後の時代には季節と暦のズレを閏月によって補正する太陰太陽暦が考案されます。
一方、太陽暦はエジプトで発明されたもので、1か月を30日とし、年末に5日の閏日を加えるというものです。この1年を365日とする考え方は、ナイル川が6月の夏至の頃に増水期に入る直前、明け方の東の空にシリウス(古代エジプトではソティス)が出現するのですが、ある年のシリウスの出現から次の年のシリウスの出現までが365日だったことに由来します。
このように文字と暦が発明されたことで、歴史を記録するための前提が整えられました。
2.出来事のリストの作成
文字を獲得した古代オリエントの人々は、知識や情報を整理するために膨大な数のリストを作成しました。例えば、税や貢納の受領証、戦利品の明細書、配給物の分配や役人の給与、人口調査の記録、人名・地名目録、財産目録などで、これらは宮廷や神殿における行政的・財政的管理のために使用されました。
こうしたリストの中には、記録に値すると思われる出来事を整理した「出来事のリスト」が存在します。このリストは、「〇〇の出来事があった年」というように出来事によってそれぞれの年が名付けられていることから、「年名表」と呼ばれます。例えば、バビロン第一王朝のハンムラビ王の治世については、治世1年目は「ハンムラビ、王となる」、治世4年目は「聖域ガギアの壁が築かれた」、治世37年目は「マルドゥックの偉大な力によって彼はトゥルックとカクムおよびスバルトゥの国の軍勢を打ち破った」といった名前が付けられています。
年名表が作成された背景には、ある年を他の年から区別するにはどうしたらいいか、という行財政管理上の問題がありました。現在の私たちは、キリスト紀元や元号など、ある出来事を元年として年を数える紀年法を使用しています。しかし、古代オリエントにおいては紀年法が未発達であり、「西暦2024年」とか「令和6年」というような年の数え方をすることができませんでした。そこで、それぞれの年ごとに名前をつけることで、ある年を特定できるようにしたのです。
3.王と王朝の記録
年名表はやがて、歴代の王ごとに出来事で名付けられた年の名を治世年順に並べたリストへと整理されていき、さらに時代が下ると、各王朝について王の名と在位年数を順に記しただけのリストが作成されるようになります。こうしたリストは王名表と呼ばれ、バビロニアでは紀元前16世紀から始まるカッシート時代から、エジプトでは中王国時代から王の治世年で年代を表示する方法が標準化していきます。
しかし、王名表は単に過去の記録の要約にとどまらず、政治的意図をもって編集されていきます。「シュメル王名表」では、各都市国家が自分たちこそが王権の正統な後継者であることを示すために、実際には複数の王朝が併存していた時期についても、一つの都市国家が王権を握っていたかのような記述がされています。例えば、ウル第三王朝滅亡後の群雄割拠時代、イシン王朝はイシン諸王の治世を王名表に書き加えたのに対し、南部の有力都市ラガシュの存在は無視しています。
一方、北部メソポタミアで作成された「アッシリア王名表」は、アッシリア王権の長い伝統に連なることが自らの正統性につながることから、王統の歴史的一貫性を強調した内容となっています。エジプトで作成された「トリノ王名表」では、神々と半神的王たちが統治した時代から始まり、その後実在の王たちの記述へと移ることから、王権が神に由来することが示されています。いずれにしても、王名表によって、王権の正統性を示そうとしたことに変わりはありません。
4.年代記と歴代誌
こうした王名表とは別の形式で王の功績を遺すために作成された文字資料として、碑文があげられます。碑文は戦勝や建築物建造などを記念して作成されたもので、単なる事実の羅列ではなく、出来事を叙述するというスタイルがとられています。こうした碑文のうち、王一代の治世年を順を追って記述する形式のものは「年代記」と呼ばれます。
年代記も単なる記録ではなく、王のプロパガンダという性格があります。例えばアッシリアの歴代王が残した「アッシリア王年代記」では、南部のバビロニアとの抗争について書かれた部分について、常にバビロニアに非があり、常にアッシリアの勝利に終わる、というアッシリアに有利な記述がされています。
古代オリエント時代が終焉を迎えるころ、ようやくリストや王のプロパガンダではない、客観的事実を記述する形式の文書が登場します。それが、新バビロニアの歴代王たちの治世を記した文書群「バビロニア歴代誌」です。「バビロニア歴代誌」は、前747年のナボナッサルによる王朝開始から、前539年の滅亡までの王を対象としており、三人称で記され、王を称賛するわけでも批判するわけでもなく、事実を淡々と客観的に記述しているのが特徴です。
5.歴史を残さなかった文明
前539年、新バビロニアの征服を皮切りに、アケネメス朝ペルシャがエジプト、アナトリア、ギリシャ北部をもその統治下に収め、三大陸にまたがる史上初の世界帝国を樹立します。強大な国家を築いたアケネメス朝でしたが、各王の残した碑文は残っているものの、メソポタミアの人々や古代エジプト人のような過去から連綿と続く歴史記述を作成することはありませんでした。こうした傾向は後に登場したサーサーン朝も同様であり、ペルシャ帝国史の研究はもっぱら同時代の外国人が残した記録を頼りにする必要があります。
ペルシャ帝国と同様に、歴史記述を残さなかった文明として古代インドがあげられます。インドでも碑文(インドの場合は「刻文」と呼ばれる)が残されてはいますが、12世紀のイスラム流入以前においては、やはり歴史記述を作成することはありませんでした。こうした状況からインドは「史書なきインド」とも呼ばれます。
なぜペルシャ人やインド人は歴史を残さなかったのでしょうか。「時間」に対する感覚が他の民族と異なり過去に対する関心が低かったから、識字能力が低かったからという説明がされることもありますが、決定的な理由はよくわかりません。むしろ「歴史を記録する」という感覚のほうが特殊であるという可能性もあります。
6.まとめ
人類史上最初の歴史の記録は、行財政管理上の理由から出来事で年に名前をつける「年名表」から始まりました。やがて、年名表は王の名前と治世年をまとめた王名表にとって代わられ、その性格もある年を別の年と区別するという目的から、自らの正統性を示す政治的意図に基づくものになっていきました。さらに、こうしたリストとは別に、王の功業を称える碑文類も作成されるようになります。
こうした過去の記録を編纂するという文化や、王権の正統性を過去に求めるという姿勢、王の功業を未来永劫残そうという意識は、過去とのつながりを意識する「歴史意識」が誕生したことを示しています。古代オリエントにおける歴史意識の萌芽と歴史記述のはじまりは、後世におけるそれの原型となっていきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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