ディベート教育を今すぐやめろ⑤


どっちが正しいかを言い合っても、現実に答えがわかるものについては、論争しても仕方がないです。

人類がやらかしてきた数々の不毛なディベート論破対決や医療の視点から語ります。

例えば、17世紀のイタリアで、ガリレオ・ガリレイが観測と数学を用いて天体の運動を研究していました。
やがて、彼の支持した地動説は論争を生み、ローマ教皇庁によって異端審問で詰められ、裁判で彼は軟禁刑を言い渡されました。

これも、キリスト教の教義と科学のどっちが正しいのかという主張のぶつかりみたいなものだと思いますが、今考えればどうでしょうか。

どっちが正しかったか、その後の技術の発展でわかってしまいましたよね。

論争には勝ちました、で現実とは違いました、だとちょっとバカバカしくないでしょうか。
議論に何の意味があったんでしょうか。

論破して負けた方をコテンパンにして、発言させないようにしても、
人間には認識できる範囲に限りがあるので、その当時には思いつかなかったケースや知りえなかった情報が後から追加されて、後からどんでん返しが起こってきました。

このどんでん返しまでの時間が無意味に思えます。
本当は意味のあるものなのに負けたから打ち捨てられて検討の余地を与えられなくなって、進まなくなったりするからです。全体としてマイナスです。

となると、ディベートを意味のあるように教えて、実際に社会で実行し出す人間が増やすとみんなにとってあんまりメリットがないんです。

その論争で勝った方に納得している方も結構やばいかもしれません。
論理的思考のトレーニング以前のレベルで、我々は発言者のプロフィール、語気、発言した順番でころっと納得してしまいます。
じっくり考えて検討しないで、負けた方の筋が通っていないと判定してしまうわけですからね。
安易に支持した結果どうなったかは、間違えた方の支持者が歴史上どう扱われているかでわかります。

医療でも同じことが起こっているようです。
医療ではポジショントークの色がかなり強くなるので、
どっちが正しいか論争すると、
さらに間違った方向に行きやすくなります。
皮肉なことに現実に答えがわかってしまうことが多いので、
茶番がバレてしまいます。

アルツハイマー型認知症の研究でもあったようです。

この認知症は、アミロイドベータという物質が脳に溜まることだとされてきましたが、その物質を除去しても、そんなに良くはならないことがわかっていて、
仮説の矛盾が浮き彫りになっているそうです。実はこの仮説は、論争によって勝ってきただけの要素があるのではないかと言われています

アミロイドベータを除去する作用を持つレカネマブも、認知症を止めることはできません。

論破した、でも患者は死んだ、だと何しているこっちゃわからないです。

視点を変えると、ディベートで相手に勝って納得させなくとも世界を動かす方法はたくさん存在します。
勝手に研究を進めて、証拠で証明するとか、
金を払って人を動かして、組織で実行してしまうとか、
結果で議論を先行する行動ですね。

議論で勝つのではなく、勝つのが大事なんです。

17世紀のイタリアや認知症の研究のていたらくを見て、今の人たちがやるべきなのは、
討論でどっちが正しいかをはっきりさせることではなく、

現実に意味のあるかもしれないオプションを併存させておくべきだったと思います。
実はどっちも正しかったという可能性もあるかもしれません。

当時、地球が太陽の周りを運動しているのはいくつかの部分的な証拠が出ていましたが、その後の観測や理論によって修正されてきました。

論争があるということは、まだ根拠や情報が足らずどっちとも言えるということかもしれません。

であれば、何が正しくなろうとも良いように、賭けておくというのはメリットがあります。

当時生まれた世界を説明する理論は、私たちの理解を進め、意味のある結果をもたらしました。

選択肢として残しておきさえすれば、それぞれ勝手に前進し、後に正しいとわかるとすぐ飛びつくことができるでしょう。

自分がローマ教皇庁の側になるとは願わないでしょう、

今の私たちも、きっと昔と同じ状況なのかもしれません。

参考文献
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