習慣化を徹底し過ぎた後の夜明け②

習慣化により目的に最適な行動ができるようになりますが、あらゆる物事を効率的に追求しがちになる副作用があります。
習慣化やりすぎから見える人間の特性と、乗り越える方法を実践して前に進んだ実体験をご紹介しましょう。

何もかも目標に向かって最適化して努力すると、結構脆いです。
やる前から道筋が見えにくい類のプロジェクトもあり、状況によってどんどん変化してうまくいきにくくなってしまいます。

僕は、いき過ぎた習慣化によってこのような考えが加速していってしまいました。

例えば、キャリアパス、マーケティング、経営コンサルティングなどに関わる連中は、同一の教典でも参照して発言しているのかと思えるほど、「成果を上げる」「無駄をなくす」「強みを生かす」を連呼しますね。これと同じような感じです。

多くの人が考えつくルートであるため、ビジネスにおいては競合も増えるでしょう。

話はそれますが、大人になると、金という目標と引き換えでしか行動を起こせないことが増えてくるのではないでしょうか。

逆にいうと、金を産まない行動は選択肢として存在しにくくなってしまいます。
でも、直ちに金にならなくても、する価値のある行動はあるはずですよね。

話を戻しますが、このような状況を見るにつけ、自分の習慣を見直して、効率化重視の考え方で頭の中を汚染しないようにするために、いくつか工夫してきました。自分の中でも、他人とも同じ考え方をなるべくしないようにするというのが核となる思いです。

その中の一つのわかりやすい例として、
ある一定の割合の活動は、短期的に利益が取れないプロジェクトを行うようにしてきました。(これも行動習慣なので導入するのは簡単でした。)
機会に出会ったら、反射的に実行・開始するようにしています。
長期的なメリットがありそうでもなさそうでも構わないとしています。

金銭的な利益が得られない仕事を勝手に作り出していっている感じです。

利益を目標とする計画は、手段や方法が集約化していき、計画もだいたい決まってきますし、結果も予想できることが多いです。優先順位をつけ選択肢を絞ることが大事だったりします。
が、これに慣れていると、報酬が前提で、それを最大化する行動や計画しか頭が回らなくなってきてしまいます。

インセンティブの代わりに、遊び、つまり自由がなくなるんです。

一方、利益を目標としない計画は、発想や可能性が拡散していき、効率だけを追い求めると選択肢を見落としたりして、うまくいかないこともありますから、いろんな選択肢を残しておきながら進めていくことが結果的に良かったりします。

余地が残るようになるんですね。

例えば、人間の四肢の筋肉や骨格について相談をもらった時、医者といえどこの分野についてあまり詳しくなかった時期がありました。

その後、年単位でリハビリテーション、理学療法を勉強して、自分でも試し、理学療法士に質問できるまでになりました。

もちろん、経験や幅広い知識が要求される領域では、1年やそこらの勉強期間で、そのままマネタイズできるわけではないです。(なんでも即収益化するのは貧乏かつバカの発想と思います)

むしろ、マネタイズを目標としていないからこそ、中途半端な状態から出発しても良く、学校に入ったりせず、非一般的な手法で専門知識を得てもいいわけです。

これのいいところは、専門知識を自分の見たい視点から配列し直すことができることです。
通常学校に行っていると、教科書の最初から学びますが、
教科書の一番後ろから、トップダウン的に学ぶことも可能で、そうなると、カリキュラムで学んだ人とは違う独特な専門知識の体系ができたりします。

先の例では、実際理学療法士と話していて、特に運動学については、少し変わった理解を持っていると感じます。

ここでは、わかりやすい例として専門領域の習得を挙げましたが、他の種類の活動でも応用可能です。

インセンティブなしに、世界の理解を自由にデザインできるのは、最高の体験です。

とりえる選択肢の結果は、無数の未来が待っていると実感しました。

続く