今年印象に残った本⑧『敗北を抱きしめて』ジョン・ダワー
恥ずかしながら、筆者は『敗北を抱きしめて』を今年初めて読んだ。アメリカはもちろんのこと、日本でも言論界に大きなインパクトをもたらしたこの本は、たしかに占領期の日本を書いたものとして優れていると感じた。が、一方で筆者はあまり感慨らしいものを覚えないまま、まもなく次の本に移ってしまった。不遜な話だが、当時の筆者は本書を単なる知識を得るための本としてしか見ていなかった。
ところが、今年の8月になると急に自分の問題意識に引きつけながら本書を再読できるようになった。きっかけは、國分功一郎が『新潮』に寄せた「天皇への敗北」という論考を読んだことだった。
「天皇への敗北」によると、第二次安倍政権下で日本国憲法は改正の危機に見舞われたが、そのときリベラルの人々は自分自身の力で憲法を守り切ることができず、代わりに当時の天皇明仁を頼らざるを得なかった。
明仁天皇は日本国憲法の規定に則った言動をとり、安倍晋三をはじめとした保守派を牽制しながら改憲を防ぐことができたが、リベラルはそんな天皇に拝跪することしかできなかった。國分は名指しを避けているが、樋口陽一や豊下楢彦などといった安倍政権に批判的なリベラルが、一方でことごとく天皇に屈していったのが平成後期という時代だった。
筆者は國分の論旨にはおおむね賛同していたのだが、一方で彼がリベラルの先輩たちへの批判が甘いのではないのかとも感じた。彼が批判を控えているのは、先程名前を挙げた樋口や豊下といった人々だけではない。國分は論考の中で、日本国憲法が危機に陥ると天皇が存在感を増してくる理由について、ここにはある特殊な構造が見いだせると指摘している。そして彼は、この構造の所以を知るために、柄谷行人の『憲法の無意識』を引用している。
柄谷によると、日本人が憲法をいまなお変えていないのは、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の記憶があるからだという。
日本は徳川体制を打倒し、明治維新を経て軍事大国になったが、大東亜戦争に敗れて一からの出直しを強いられた。その時、日本人は江戸時代の平和だったころを思い出した。徳川の世はあんなに良い時代だったのに、私たちは自分からその平和をみすみす手放してしまった、その反省をするためには日本を戦争のできない国にするしかない――そんな意識が憲法第9条を維持している要因なのだ、と彼は言う。そして、徳川幕府が天皇を象徴のように扱っていたからこそ、戦後の日本人も象徴天皇制を受けいれたのだ、とも。
國分は、柄谷の主張が正しいかどうか「判断できない」として批判を保留している。筆者はこの主張がちゃんちゃらおかしいと思ったので、長い記事を書いていかに柄谷が間違っているかを指摘した。
この記事を書く過程で、そもそも象徴天皇制の導入はアメリカによって太平洋戦争の序盤にすでに計画されていた、という情報が『敗北を抱きしめて』に書かれていたことを思いだした。ジョン・ダワーは、GHQの副官を務めたボナー・フェラーズが、戦中に戦略作戦局の報告書に以下のように記したことを引用している。
大日本帝国の暴走は軍部のせいであって、天皇にはまったく責任がない。彼を闇雲に処刑しようとするのは、戦後の日本統治の観点から見ても害悪である。天皇の威光を利用しながら、「リベラルな政府」を作ることこそがもっとも穏便に占領政策を進められる――こういった戦中の目論見は、GHQの最高司令官ダグラス・マッカーサーが受け入れたことで、本格的に実行に移される。
同時にこうしたアメリカの意向は、日本にとっても好都合だった。日本の権力者たちが終戦にあたってなによりも気にかけていたのは、国体の護持、すなわち天皇制が維持されるかどうかだった。実際に昭和天皇はすくなからず戦争の作戦立案などに関与しており、訴追されれば彼の身に危険が及ぶことは避けられなかった。どうにか天皇に追及が及ばないものかと思案していた日本にとって、アメリカが天皇制維持に前向きだったのは渡りに舟と言えた。
結果、アメリカを除いた連合国の圧力、そしてアメリカ国内の圧力がありつつも昭和天皇は極東軍事裁判の訴追対象から外された。さらに日本国憲法において天皇は、象徴としての地位に置かれることとなる。大日本帝国憲法における元首としての地位に比べればたしかに「リベラル」なあり方ではあるが、一方で指導者としての責任を取らないで天皇は生きのこったのである。GHQと日本の権力者たちが「抱きしめ」あうことで、天皇制は温存された。
そして、ダワーはそれと同時に日本は単なる民主主義ではなく、「天皇制民主主義」国家として(再)スタートしたのだと言う。ダワーは1946年元日に行われた「人間宣言」を取りあげている。この宣言は昭和天皇が自らの神性を否定したことでよく知られている(一方で、彼自らが神の子孫であることは否定しなかった)。ダワーは一方で、宣言に続く当時の総理大臣である幣原喜重郎の謹話、そしてマッカーサーの反応に注目する。
言うなれば、戦後日本とは最初から天皇が民衆を導く国として作られたのである。天皇が憲法を守るのは、憲法に何らかの特殊な構造が埋め込まれているわけでも、「徳川の平和」がどうこうという問題でもない。アメリカ(とそれに迎合した戦後日本の指導者たち)が天皇を憲法を守る存在に仕立て上げただけの話なのだ。
もっとも、アメリカが天皇制を象徴としての機能に限定したからといって、昭和天皇はすぐさまそれに従ったわけではなかった。占領期の日本において、彼は様々な形で政治に容喙しつづけた。たとえば、いわゆる「沖縄メッセージ」などはその代表例である。昭和天皇は、国家元首として積極的に政治に介入する自分を忘れることができなかったのだ。
象徴天皇制は、昭和天皇が崩御した後、つまり明仁天皇が即位した後にようやく本領を発揮しはじめる。明仁天皇は、昭和天皇よりもはるかに「リベラル」な天皇だった。明仁天皇には象徴としての天皇がいかにあるべきか、という課題について(昭和天皇が長命だったのにも助けられて)じっくりと考える時間が与えられていた。そのため、彼は即位してすぐさま日本国憲法を国民の「皆さんとともに日本国憲法を守」ることを誓った。
在位中、明仁天皇はこうした態度をまったく崩さなかった。21世紀に入ってから日本国憲法は本格的な改正論議が行われるようになったが、その間も明仁天皇は日本国憲法の遵守を表明しつづけた。そうした彼の態度に、同じく護憲を志向するリベラルは感化された。象徴天皇制、および「天皇制民主主義」はここに完成を見たのである。
國分は日本のリベラルが平成後期において、天皇に力を借りなければ憲法を守ることができなかった、だから天皇に「敗北」した、としている。
だが、リベラルが自立できなかったのは、なにも平成末期に限らない。日本は戦後から一貫して「天皇制民主主義」国家として、天皇がいなければ成り立たない国として歩みつづけてきた。だから、日本国民が「天皇への敗北」を喫したのは何も平成末期だけに限らない。昭和天皇の訴追が回避され、天皇制がそのまま維持された瞬間から、日本は民主主義国家として「敗北」しつづけている。それどころか、日本人は天皇と「抱きしめ」あいながらその敗北を受けいれつづけている。つまり日本は、(白井聡が言うのとは違った意味で)「永続敗戦」に陥っているのである。