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【読んだ】感覚過敏の僕が感じる世界

おすすめ度 ★★★★★

初めて知る感覚過敏の世界

感覚過敏、という言葉は知っていた。
でも、身近に感覚過敏のある人はいなかったし、ぼんやりとしたイメージしかなかった。

大きい音が苦手だからイヤホンをしているとか…
光が眩しく感じちゃうからサングラスしてるとか…
マスクができなくてコロナ禍で苦労してるとか…

この本は、16歳の感覚過敏がある男の子が書いた本。
大げさでなく淡々と、日常でどういう困り事があるのか書いてある。
全然知らないことばかりで、人の感覚ってこんなにも違うのかと驚くばかり。

服は痛いもの、と思っていた

著者の加藤さんは、13歳のときに感覚過敏という言葉を知り、現在は「感覚過敏研究所」を立ち上げて活動している。

13歳まで、自分の感覚をどう表現していいかわからず苦しんだ経験が細かく描かれている。

例えば、彼はずっと「服とは痛いもので、それを人間は我慢してきているものだ」と思っていたらしい。

みんな痛みを我慢して服を着ていると思っていたから、わざわざ「痛いよね」と確認したことはなかったという。
服や靴下の縫い目やタグが痛くてたまらず、親に「何故着ないのか」ときかれても、うまく答えられず「なんとなく」としか言えなかった。

過敏でない自分からすると「そんなことある?」とビックリするが、確かに他人の感覚が自分と違うかもしれないなんて疑ったことすらないもんな。

強いて言うなら、こどもの頃に手とか足に何かのトゲが刺さった時。
泣き虫だった私はわんわん泣いていたんだけど、親兄弟には「こんなちっちゃいトゲくらいで大げさ!大して痛くないでしょ!」と叱られた。

子ども心に「私にとっては超痛いのに!」と思って、さらにわんわん泣いた。

比較にもならないかもしれないけど、辛いだろうなと想像できる。
自分の辛さを矮小化されて、大げさだと言われつづけるなんて、耐え難い。

親子それぞれの視点

第二章は、本人だけでなく母親の視点もいれて親子対話という形で感覚過敏を語っている。

人の親としては、お母さんのエピソードに共感しすぎて泣きそうになった。

味覚過敏

食事については、後悔や自責の念がいまだに残っています。(中略)
「大人になっても背が伸びなかったら私のせいだ」という不安や罪悪感のようなものがありました。(中略)
「食べないと大きくなれないよ」と嫌がる息子の口にスプーンを無理やり入れたことは数え切れません。(中略)

この気持ちに共感できる人は、ぜひ本を読んでほしいと思う。
いや、共感できない人も読んでほしい。

私の母は、偏食な子は「甘やかす親が悪い」と一刀両断するタイプだったが、これを読んだらどう感じるのか。
子どもは多様であり、正解は一つじゃないことを知ってほしいと思う。

自分が楽しいものは、子どもにも楽しんでほしい?

もう一つ。
きっと喜ぶと思ってテーマパークに何度か連れて行ったけど、5歳で「もう行かない」と拒否されたエピソード。
音や匂いが苦痛だったことを後で知ったという。

<母の視点>
子どもを喜ばせようとしながら、子どもが望むような反応をしないとき、がっかりしたり、逆に子どもの性格のせいにしたりしてしまいがちですが、感覚過敏を知っていたら、もう少し違うお出かけの仕方や接し方ができたのかもしれません。

これも、感覚過敏に限らず親として刺さる。
貴方のためにやってあげてるのに、こんだけ手間かけてるのに。
親だって人間だから、思ってしまいがちだし、言ってしまいがち。
自分の感覚や感想は、他人とは違うのだと……うーん、わかっているけどやっぱり難しい。

知ることで楽になった

著者は中学1年生のときに、保健室の先生から「それって聴覚過敏じゃないかな?」ときかれた。これが感覚過敏という言葉のはじめての出会いだったという。

著者の場合、親子でこの言葉を知ったことで色んなことが良い方向に進んだという。
その時のエピソードは読んでいて「よかったねー!」と近所のおばちゃん化してしまうほど良い。

感覚過敏は医師の診断がつく病名ではないし、治療法もないので、周囲に理解されにくい

それでも、著者は保健室の先生が「感覚過敏」を知っていたことで救われた。専門家でなくても、「そういうものがある」と知っているだけでぜんぜん違うと思う。
本人も周りも知らなければ、「ただのわがまま」と言われずっと苦しむことになったかもしれない。

みんなと同じが正しい?

感覚過敏やHSPという言葉は、よく聞くようになった。
一方で「それを言い訳にしてる!」みたいな人も多い。

著者も、自分の取り組みがネットニュースになった時に「無人島にいっても味覚過敏で食べられないというなら信じてやるよ」というコメントがされていたエピソードを語っている。

以前の私なら、このコメントに少し共感してしまったかもしれない。

だけど他人の感覚が自分と同じではないことは、考えてみれば当たり前のことだ。感覚は目に見えないし、人と比べることもできないのだから。
自分の感覚を正として、他人をジャッジする権利なんて誰にもない。

本の中にも、嗅覚過敏の対策としてマスクをしていた話がある。
コロナ前は異様に見られた夏場のマスクも、コロナ禍後は完全に溶け込んで、逆にマスクをしない人が異様な目で見られるようになった

マジョリティ側(多数派)にいるのか、マイノリティ側(少数派)にいるのかによって、周囲からの扱いは変わってしまうのです。

「みんなと同じ」を価値判断の基準にしてしまう。
はずせるようになった今も、マスクを付けたままの人が多いのが、顕著な例だ。

「みんなと同じ」を求める心は、本能に近いものがあると思う。
だけど、私たちは理性のある人間だから、本能のままに同質性を求めたり、他者を排除するのはやめられるはずだ。

多様性と一口に言っても、考えることはまだまだある。

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