男子生徒への半裸強制に関する新聞記事(2) ~男性の性的羞恥心を考えるために~

この記事では、前回 に引き続き、〈男子生徒への半裸強制〉の問題を取り上げます。具体的には、〈体育授業あるいは体育祭において、男子生徒が上半身裸になることを強いられた〉という事実を報じた新聞記事を紹介します。もちろん、僕自身の考えも書かせていただくつもりですが、一番大切なことは、紹介した記事をもとに読者の皆さんそれぞれに考えを深めてもらうことです。フラットな気持ちで、各人において記事を咀嚼していただければ幸いです。まず、問題について知って欲しい。考えてみて欲しい。そういう願いを込めて、記事を世に送ります。
今回ご紹介するのは、2002年(平成14年)9 月に、毎日新聞の〈 オピニオン 〉欄に掲載された、京都市在住の男子高校生による投稿です。また、その投稿の内容をめぐって、2002年(平成14年)11 月の同じ欄に、合計で3つの投稿が掲載されたので、それらもご紹介します。

元投稿:上半身裸の棒倒しはセクハラだ 17歳男子高校生 

上半身裸の棒倒しはセクハラだ 高校生・17歳・男性

僕は高校3年だ。この季節になると、とてもゆううつになる。それは体育祭で、棒倒しがあるからだ。男子生徒全員参加の伝統行事というが、どういうわけか僕の学校では、上半身裸にならなければならない。それが嫌なのだ。
なぜ、棒倒しを半裸でやらなければならないのか。必然性があるのだろうか」。そして上半身裸の僕たちを、女子生徒がうれしそうに、カメラで撮影するのである。
特別な理由もないのに、見せ物みたいに男子生徒を裸にする。こんな行事はセクハラではないかと僕は思う。女子生徒には、ノースリーブでさえ禁止しているのに。明らかな男子生徒への差別ではないか。友人の中には、棒倒しが嫌で、体育祭当日を欠席する者もいるほどだ。
こういったあしき伝統行事は、早急に廃止してほしい。

毎日新聞,2002年9月30日付朝刊,5面

この投稿で、彼が訴えている問題は、大きく2点に分けることが出来ると思います。
第1の問題は、強制的に上半身裸にさせられることによる精神的苦痛です。前回 書いたとおり、男性にも当然ながら性的羞恥心があります。特に、中学生や高校生といった思春期の時期であれば、なおさらデリケートです。自分自身の身体にコンプレックスがある場合などは、人前で裸体をさらすことには、耐えられない苦痛が伴うことでしょう。この投稿をした彼を、あるいは、体育祭を欠席する友人を、笑う人もいるのかもしれません。しかし、これは笑い事ではないと僕は思います。当人にとっては極めて真剣で、重大な問題なのですから。もちろん、際限のないわがままは集団生活の場においては慎む必要があるでしょう。でも、僕はこの訴えをわがままだとは思いません。彼やその友人の気持ちを大切にして欲しいと思います。
第2の問題は、女子生徒に撮影されることによる精神的苦痛です。9割方は異性愛の女子生徒でしょうから、〈うれしそうに〉撮影する動機の中には、当然ながら性的な欲求があるはずです。したがって、このような視線を向けられることに不快感を持った男子生徒がいたならば、ここに彼に対するセクシュアル・ハラスメントが成立すると思います。性別とか性的指向とかに関わりなく、セクハラは起こりえます。たまに逆セクハラという語を目にすることがありますが、セクハラに正方向も逆方向もありません。セクハラはセクハラです。
第1の問題についても、第2の問題についても、結局のところ、〈強制性〉があることが引き金になっていると考えます。もし、〈任意性〉が担保されていれば、いずれの問題も回避することができるでしょう。本人の意志が反映される余地があるかどうかが重要なのです。僕は、棒倒しを上半身裸で行うこと、それ自体を否定するつもりはありません。ただ、裸になりたくない人はならなくても済む(裸になりたい人だけがなる) ということを、しっかり保障することが必要なのだと思います。

9月30日に掲載されたこの投稿に対して、しばらく経った11月に、反応がありました。まず、11月12日に否定的な内容の投稿が掲載されます。今度はそれを見てみましょう。

反応A:体育の半身裸はセクハラでない 41歳女性 

体育の半身裸はセクハラでない パート・41歳・女性 

最近、男性のセクハラに関する投稿が多い。「上半身裸の体育祭はセクハラだ」と男子生徒が言う。何でもかでもセクハラと言い過ぎではないだろうか。
埼玉県の男女共学のスポーツ強豪校に進学した娘の体育祭のビデオが届いた。体育科の男子は、体操服姿でのマスゲームだが、もし学校から「上半身裸に」との指示があれば親も生徒も従うだろう。
娘も「体育科にセクハラの言葉はない」とはっきり言う。むしろ裸を拒否して体育祭を休んでも容認される風潮に驚いていた。多少、嫌でも我慢してなし遂げることを、学校や親は求めないのだろうか。
娘の学校では、着替え一つでも女子優先だ。男子は屋外でも人目を気にせずに裸になれるが、女子は違うからだ。これも、最近ではセクハラになるのだろうか。男が細かいことを気にする時代になった。「男が弱くなった」と言われても仕方ないと思う。

毎日新聞,2002年11月12日付朝刊,4面

まず正直なことを言わせていただくと、この意見文を読んで僕はかなり腹を立てました。また、たいへん悔しいような切ないような気持ちにもなりました。僕は、このパートの中年女性を知りませんし、会ったこともありませんが、この人のことを許せません。はじめにそのことを表明しておいたうえで、反応Aについて考えてみることにしましょう。
第1に、『何でもかでもセクハラと言い過ぎではないだろうか』とか『多少、嫌でも我慢してなし遂げることを、学校や親は求めないのだろうか』という言について。この言が向けられる対象が、まず問題だと僕は思います。もし、男女に関わりなく全ての人に対して向けられている場合、「男性であれ女性であれ、多少のことは我慢しろ」 という趣旨になります。僕はこの言に基本的には賛同はできないものの、一つの意見として納得することはできます。一方、男性にだけ向けられている場合、「男だったら、多少のことは我慢しろ」 という趣旨になります。これは賛同も出来ませんし、納得もいきません。一番の問題点は、〈我慢する〉とか〈耐える〉という〈男らしさ〉を男性にのみ強いている点です。これは立派なジェンダー・ハラスメントに該当します。人間社会には痛みや苦しみや辛さがたくさんあります。したがって、当然ながら、男性も痛みや苦しみや辛さを感じながら生きています。こうしたものにどこまで〈耐える〉かということは、本人が決めることであって、周りが勝手に決めつけることではありません。
反応Aを書いた、当時41歳の女性がどちらのスタンスなのか、この短文からは断言するのが難しそうです。ただ何となく後者なのではないかと僕は思っています。男性に対してのジェンダー・ハラスメントを公然として憚らない女性は、何も珍しくはありません。本当に男女平等やジェンダーフリーを願うのならば、こうした女性たちの意識革命も必須でしょう。
第2に、『男子は屋外でも人目を気にせずに裸になれるが、女子は違うからだ』という言について。ここについても、僕は声を大にして異を唱えたいです。『男子は屋外でも人目を気にせずに裸になれる』と断言されていますが、これは本当なのでしょうか。実際の所、屋外で裸になることに対して抵抗を感じる男性というのも、想像以上に多く存在すると思っています。男性は性的羞恥心を麻痺させられていたり、性的羞恥心の表出を抑圧されているため、潜在的なものも考慮が必要です。それでも、おそらく女性の場合よりは少ないのでしょうけれど、だからといって無視して良いということにはなりません。とくに、〈マイノリティに優しく〉と掲げている方々は、こうした〈性的羞恥心の強い男性〉というマイノリティにも優しくしなければ筋が通りません。
ところで、こうした発言をする人の思考経路は、どうなっているのでしょう。僕は、「男は屋外でも人目を気にせず裸になれるものだ」という定義付けが先行してしまっているのではないかと思います。こうした人は、まず、現実の世界にその定義から外れた男性が存在することを直視するべきでしょう。そして、定義を現実に即したものに変更する必要があると思います。
第3に、『もし学校から「上半身裸に」との指示があれば親も生徒も従うだろう』という言について。実際にそうなることも多々あるのでしょう。でも、よくよく考えてみれば、これは恐ろしいことなのではないでしょうか。秩序や規範といったものの大切さは僕もよく認識しています。規範意識が崩れてしまい、秩序を失った集団は、瓦解への道を辿るでしょう。したがって、集団には一定の秩序や規範が必要なのだと考えています。とはいえ、これは〈判断停止〉をしろと言うのとは違います。もし理不尽な指示を受けたら、もしこれはさすがに耐えられないという指示を受けたら、そのときにはきちんと意志を表明できるのが健全なあり方だと思うのですが、どうでしょう。学校教育は、社会生活を円滑に営めるようにするための鍛錬の場でもあります。その場で、「どんな指示にでも黙って従う」という〈判断停止〉を教えるというのは好ましくないでしょう。むしろ求められるのは、秩序や規範の必要性をよく認識することと、その秩序や規範の妥当性を見極めていくこと、そして場合によっては意見を表明したり、修正を加えたりしていくことではないでしょうか。わがままは慎まなければなりませんが、あまりに理不尽な事柄や、あまりに耐え難いような事柄については、毅然と拒むということも大切だと思います。

さて、この11月12日の投稿が火を付け、11月23日と11月25日にも関連した投稿が掲載されます。
11月23日のものは、年配の男性からのものです。1933年頃の生まれと思われ、戦時下に小学校(当時は国民学校)で学んだ世代です。

反応B:男子が恥じるのは裸でなく他に 69歳男性

男子が恥じるのは裸でなく他に 無職・69歳・男性

12日本欄「体育の半身裸はセクハラでない」を読み、その通りだと思います。
男の子が、上半身裸で棒倒しで暴れ回る……。なんとカッコイイことでしょうか! それを恥ずかしいとは、世の中も変わったものだと思いました。
私が中学生の時、上半身裸、素足で棒倒しをさせられました。私は自分の薄い胸板と細い腕が恥ずかしいと思いました。女の子たちは、男の子のたくましさに魅せられるのではないかと思います。
日本の庶民文化である銭湯を、「裸の付き合い」と高く評価し、愛してくれた英国人もいます。男の子が恥ずかしがることは、もっと他にあるのではないでしょうか。
小・中学生のころのことです。いつも、いじめられている同級生がいました。彼を助ける甲斐性が、そのころの自分にはなかったのです。そのことを私はいつまでも、ひそかに恥じていたものです。

毎日新聞,2002年11月23日付朝刊,4面

11月12日の 41 歳女性の投稿に賛意を表していますが、投稿内容の趣旨は少し異なっているように僕は思いました。異論はありますが、どこか共感できる部分もあり、41歳女性の投稿に対して感じたような、猛烈な腹立たしさや悔しさなどは湧き上がってきませんでした。
まず、『男の子が、上半身裸で棒倒しで暴れ回る……。なんとカッコイイことでしょうか!』という部分は、基本的には僕も同意するところです。とはいえ、上半身裸になってカッコイイかどうかは、人を選ぶと思うのです。鍛え上げられた筋肉質の体躯であれば、それはカッコイイでしょう。でも、肥満体型や極端な痩せ体型であればどうでしょうか。こうしたものは主観なので、人によるのでしょうけれど、やはりあまりカッコイイという感じにはなりづらいのではないでしょうか。筆者である僕も極端な痩せ体型です。どうしてもそれがコンプレックスで、何とかしたいと思いつつも、何とも出来ずにいます。こんな醜悪な皮と骨のみの裸体を、大勢の前に晒すなど、考えただけでも身の毛がよだちます。要は、半裸で走り回る姿がサマになればいいけれど、お世辞にもカッコイイとは言えないような場合も多いわけです。
ただ、その点については、投稿者の男性もお分かりのようではあります。『私が中学生の時、上半身裸、素足で棒倒しをさせられました。私は自分の薄い胸板と細い腕が恥ずかしいと思いました』という記述があります。そうした実体験をお持ちであれば、もう少し高校生の少年の気持ちにも寄り添ってあげて欲しかったなと、僕などは思ってしまいます。あるいは、「俺だってあの試練を乗り越えたのだから、お前も大丈夫だ!がんばれ!」という、人生の先輩からの思いを込めたメッセージなのでしょうか。その辺りの微妙なニュアンスは、この短い投稿からはなかなか読み取ることができませんね。
最後の部分、『男の子が恥ずかしがることは、もっと他にあるのではないでしょうか』よりも後の部分については、僕も真摯に受け止めたところです。自分自身の人間性とか、内面の気高さとか、そういった部分に目を向けていこうということを、この男性はおっしゃりたいのでしょう。自らが未熟な人間であることを恥じ、さらに高めていくことを目指すというのはとても大切なことだと僕も思います。そうした場合、恥ずかしさが成長のための原動力にもなり得ますね。
もっとも、ここでいう羞恥心(自らの未熟さを恥じる心)と、性的羞恥心は、次元が異なるような気もします。僕としては、これらは「あれかこれか」の択一を迫られるようなものでは無く、むしろ、「それはそれ、あれはあれ」という形なのだと思います。したがって、〈自らの未熟さを恥じる心〉を大切にして欲しいというところには同意しつつ、それと同時に性的な羞恥心も尊重していく必要があるのだというのが、僕の意見です。
 
11月25日の投稿は、23歳の若い男性からのものです。彼は1978~1979年の生まれであり、フェミニストたちによる〈男女平等〉の訴えを聞きながら育ってきた世代です。また、高校では、当時まだ開始されたばかりの男女共修の家庭科を受講した世代でもあります。したがって、彼の投稿には、その影響が色濃く出ているように思います。

反応C:強い女や弱い男がいてもいい 23歳男性

強い女や弱い男がいてもいい フリーター・23歳・男性

12日本欄「体育の半身裸はセクハラでない」を読みました。その中で「(娘の学校では)体育科の男子は、体操服姿でのマスゲームだが、学校から『上半身裸に』との指示があれば親も生徒も従うだろう」とありました。
これは危険なことではないでしょうか。そこには子供の意見が反映されていないと思います。思春期の子供たちが当事者なのですから。
私もかつて胸や背中にできものがありましたから、人前で裸になるのは嫌でした。「そんなこと」と言われるかもしれませんが、思春期で「人と違う」ということが、どれほど気になるものか。
「男が細かいことを」とか「弱くなった」と言われますが、性別による特徴付けは終わりにしませんか。強い女がいて弱い男がいてもいい。それが個人の資質なのです。「上半身裸の棒倒しはセクハラだ」という男子高校生の心が一番大切だと思います。

毎日新聞,2002年11月25日付朝刊,5面

この投稿については、僕は概ね同意します。先ほど僕が述べた、『もし学校から「上半身裸に」との指示があれば親も生徒も従うだろう』という言に対する危惧もされていますね。『私もかつて胸や背中にできものがありましたから、人前で裸になるのは嫌でした』というところから、当事者としてのご経験もうかがえます。僕の場合は、先述の通り極端な痩せ体型であるという、体型の問題でしたが、この投稿者のように、できもの等を持っている場合にも、問題になりますね。こうした訴えは、女子のものであれば通りやすくても、男子のものはどうしても通りづらいと思います。一笑に付されて終わってしまうか、あるいは、「男の癖に情けない」と断じられるか。いずれにせよ、救いがないですね。それでも、昔日に比べれば多少は報われるようになってきているのでしょうか。
なんだかんだ言って、近頃では、強がらずに弱い部分も出していく男性が増えたのだと感じます。そうすると、弱い男性が増えたというように見えるのですが、実のところは何も変わっていないのだと思います。ただ、その弱さを抑圧していたか、抑圧せずに表出させているかの違いだけですね。そして、弱さを抑圧することはさまざまな病理に繋がりますから、そんなことをする男性が減ることは、僕としては好ましいこととしか思えません。
「男が弱くなった」と言われても、僕は痛くも痒くもありませんね。なぜなら、弱い男はただ単に〈弱い〉だけであって、何も恥じることなどないと思っているからです。人間色々ですから、強い人もいれば弱い人もいます。それだけのことです。でも、そんな風に割り切ってしまえる人ばかりでもありませんよね。僕も、今の状況へたどり着くまでには、紆余曲折がありました。少し乱暴な言い方をすれば、〈 男は強く、女は弱い 〉などというのは思いこみに過ぎません。そのことを念頭に置くだけで、いろいろと違った見え方をしてくると思いますよ。見えなかったものが見えるようになると思います。
例えば、男性差別というのもその1つかもしれません。性差別というのは、コインの表裏のように、男性差別と女性差別が一体のものとして存在しているのだと僕は思います。ただ、〈男は強く、女は弱い〉に囚われている限り、男性差別の存在は認識されません。結果的に、今なお、性差別といえば女性差別だけなのだと信じ続けている人も多いのです。男性差別は、最近になって生じたものでは無く、古来からずっとずっと続いているのです。女性差別がそうであるのと同じように。〈男尊女卑〉と名付けられている非対称な構造は、実は男女双方にとって抑圧的に働くのです。また、男女双方の性がそこから旨味を得ているともいえるのです。ワレン・ファレル氏の名著『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』を読んでみてください。〈男は強く、女は弱い〉という思いこみを取り払いたがらない人が多いようで、きわめて残念です。特に、男女平等とか、男女共同参画とかを声高に唱える人に限って、いつまでも〈男は強く、女は弱い〉に囚われ続けているように、僕には思えてなりません。
本題に戻して、性的羞恥心の強い男性が救われるためには、究極的には、社会全体の意識改革が必要なのだと思います。〈男は強く、女は弱い〉という思いこみがある限り、性的羞恥心の強い男性の存在も、〈見れども見えず〉になってしまいます。

前回と今回で新聞記事のご紹介を通じて、性的羞恥心の強い男性のことを知っていただけたことを嬉しく思います。こんなにも長い記事を、最後までお読みいただいて、本当に感謝です。
僕は、これからも、この問題について考察を深めていくつもりでいます。

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