イラスト名建築ぶらり旅 season2②
“免震素屋根”でよみがえる歴史の証人
今回の行き先 愛知県庁舎
1938年(昭和13年)に竣工した愛知県庁本庁舎は、洋風建築に城郭風の屋根を載せた名古屋の官庁街(三の丸)のシンボルともいえる建築だ。といっても、今はシンボルの屋根がほとんど見えない。(取材当時 2024年5月)「素屋根」と呼ばれる工事用の仮設の大屋根ですっぽり覆われているからだ。
工事の前はこんな外観だった。
なぜ肝心の屋根が見えないときにリポートするの?と思われるかもしれないが、こんなときだからこそ知ってほしい屋根にまつわる2つの話があるのだ。メインの話は、案内役の西澤崇雄さん(日建設計)が文化財建造物保存技術協会とともに担当する屋根修繕工事(現在進行中)の話。その前に、もう一方の歴史の話をしたい。
以下は愛知県の公式サイトに掲載されている「本庁舎解説」からの引用だ。
「昭和天皇御大典の記念事業の一つとして、名古屋市中区新栄町(当時木造2階建て)から現在の場所への移転が決定された。庁舎の基本設計は、建築家の西村好時氏と当時、東京帝室博物館(現、東京国立博物館)の設計コンペで最優秀を獲得した建築家の渡辺仁氏に委嘱し、両氏の案を基に県建築部営繕課が実施設計を行った。建築費は当時300万円であった。
この頃は、戦争が拡大しつつある時であり、国威発揚の波に乗って日本の伝統を建築にも反映させる風潮が高まっていた。当時のごく普通のオフィスビルと大差のない躯体ながら、頂部に城郭風の屋根を乗せた特異な意匠(「帝冠様式」)はこのような時代背景の中で当時多く建設され、同じ様式の「軍人会館」(当時東京九段に計画中。現、九段会館テラス)の影響も強く受けた。
更に、建設地が名古屋城の外堀内にあり、名古屋城と、先に完成していた(昭和8年)隣接の名古屋市役所本庁舎との調和も配慮された設計が考えられた。」
建築が好きな人のために補足すると、設計者の西村好時(1886~1961年)と渡辺仁(1887~1973年)は、ともに東京帝国大学建築学科卒で同世代。西村は旧第一銀行など、多くの銀行建築を手がけ、渡辺は解説文にもあった東京国立博物館本館や、銀座和光本店、原邦造邸(旧原美術館)などを設計したことで知られる。
和風屋根の「日本趣味」が「帝冠様式」として批判の的に
工事中の屋根に関連して知っておいてほしいのは、解説文中の「帝冠様式」という言葉だ。
帝冠様式は1930年代(昭和10年前後)の日本で流行した和洋折衷の建築様式で、鉄筋コンクリート造の洋式建築に和風の屋根を載せたものを言う。建築界ではかつて、これを国粋主義と結びつけ、批判的に語られることが多かった。
戦前の1920年代後半、庁舎や美術館などのデザインを公募する設計コンペが相次いで行われた時期があった。それらのコンペの応募要項では「日本趣味」あるいは「東洋趣味」の意匠が示唆されることが多く、実際、コンクリートの箱に城のような勾配屋根を載せた建築が次々と建った。当時は「帝冠様式」と呼んでいたわけではなく、「日本趣味の建築」と呼んでいたようだ。
この「日本趣味の建築」が大きな議論を呼んだのが、東京・上野の「東京帝室博物館本館」のコンペだった。現在の東京国立博物館本館だ。コンペは初代・東京帝室博物館本館(設計はジョサイア・コンドル)の建て替え計画として1931年に実施された。応募数273案。当選したのが、愛知県庁舎の設計者でもある渡辺仁だった。
このコンペは募集要項に「日本趣味を基調とする東洋式とすること」と明記されていた。これに対し、モダニズム建築の普及を目指していた建築家の集団、日本インターナショナル建築会は応募拒否の声明文を発表。パリのル・コルビュジェ事務所で修行し、帰国したばかりの前川國男は、要項を無視したモダニズムの案を提出した。
当選した渡辺仁の案は、当然のことながらコンクリート造に勾配屋根を載せた日本趣味のデザインだった。前川は当選結果が発表されると、『負ければ賊軍』という文章を雑誌で発表。モダニズムが注目されつつあった建築界で、“落選覚悟で信念を貫いた英雄”として株を上げた。
負の遺産からの再評価、重要文化財、そして免震化
東京帝室博物館本館は1937年に完成、愛知県庁舎は翌1938年に完成。どちらも出来上がったときから建築界では時代遅れ、あるいは敵(かたき)役のような扱いだったのである。
日本が戦争に負けると、「帝冠様式」という言葉が「国粋主義」「軍国主義」と結びつけて批判的に語られるようになり、負の遺産のような存在となっていく。いつの時代も、人は悪意なく何かを断罪する。
しかし、時がたつと、歴史の再評価が始まる。帝冠様式は本当に国粋主義だったのか、と。
それを書くと長くなるのではしょるが、もう一方の「モダニズム」は常に「民主主義」の味方なのかというと、そうではないことはすぐにわかる。ドイツや日本と同盟を結んだイタリアでは、ムッソリーニのもと、ジュゼッペ・テラーニによる優れたモダニズム建築がつくられていたからだ。
そんな歴史評価の揺り戻しもあって、愛知県庁舎では長く使おうという機運が高まり、2005~2009年にかけて、「免震」の工事が実施された。そして、2014年には国の重要文化財に指定される。東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館)も2001年に重要文化財に指定されており、雲の上の渡辺仁も溜飲を下げていることだろう。
庁舎を使いながら銅板屋根と木材を修復
そして、本題の「屋根修繕工事」の話だ。現在、大きな素屋根の中で進められているのは、帝冠様式の屋根の銅板をすべて張り替える作業で、屋根を支える木材なども修復する大工事だ。それでも、工事は庁舎内の通常業務を継続しながら進める。
施工は戸田建設と榊原建設の共同企業体。屋上に上らせてもらうと、戦前の寺社の建設現場にタイムスリップしたかのようだ。
大規模な修理工事を進めやすくするために素屋根を架けることは珍しくない。姫路城も道後温泉本館も素屋根を架けて工事をしていた。この愛知県庁舎がそれらと違うのは、素屋根が「免震」化されていることだ。
案内役の西澤崇雄さんがこの工事で何を担当しているかというと、まさにこの本邦初”免震素屋根”の構造設計だ。西澤さんはもともと構造エンジニアである
(免震について詳しく知りたい方は「名古屋テレビ塔」のリポ―トをご覧ください)
地震時には建物が地盤と違う揺れ方をするので、素屋根の柱を普通に地盤側に立てると、建物と素屋根の挙動が一致しなくなってしまうのだ。
ざっくり絵で描くとこういうことだ。
素屋根を免震化することで鉄骨量が半分以下に
免震の素屋根を提案したのは西澤さんだ。
もちろん他の方法も検討した。素屋根を建物に載せてしまうのが最も簡単だが、重すぎて危ない。免震側に柱を立てようにも、そのスペースはない。もし仮に、地盤側に普通の柱(非免震)を立てて素屋根で覆うとすると、素屋根を大きくガッチリとつくる必要があり、鉄骨量は倍以上になるという。
今まで考えたことがなかったが、免震の建物で大規模な工事を行うときには、同じような検討が必要になるということだ。目の前で行われている葺き替えの光景は戦前の写真を見るようだが、技術課題としては最先端なのだ。
2025年度までに銅板葺きの北側、西側、南側の屋根を修理する。葺いたばかりの銅板は、赤みを帯びた銅の色だ。現在の緑色はもともとではなく、年月を経て緑青(ろくしょう)が表面を覆った結果なのである。今回の修理が終わり、素屋根が解体されたとき、どんな見え方になるのか。どんな反響を呼ぶのか。
当たり前のことだが、建物が残っていなければ、令和の私たちは銅色に輝く屋根を見ることはできなかった。そしてもし、建て替わっていたら、隣にいる西澤さんがヘリテージ建築に関わることもなかった。実は、2005~2009年に行われた免震化工事の構造設計を担当したのも西澤さんで、それが古い建築に興味を持つきっかけになったという。建築は歴史をつくり、ときに人の歴史をもつくるのである。
■建築概要
愛知県庁本庁舎
所在地 :愛知県名古屋市中区三の丸3-1-2
完成 :1938年
設計 :基本設計:西村好時、渡辺仁 実施設計:愛知県内務部営繕課
施工 :戸田組
構造 :鉄骨鉄筋コンクリート造
階数 :地下1階・地上6階、一部7階
延べ面積:2万8314㎡
本庁舎屋根改修工事
設計 :文化財建造物保存技術協会
施工 :戸田建設・榊原建設共同企業体
工事期間:2022年10月~2026年1月(予定)
取材・イラスト・文:宮沢洋(みやざわひろし)
画文家、編集者、BUNGA NET編集長
1967年東京生まれ。1990年早稲田大学政治経済学部卒業、日経BP社入社。建築専門誌「日経アーキテクチュア」編集部に配属。2016~19年、日経アーキテクチュア編集長。2020年4月から磯達雄とOffice Bungaを共同主宰。著書に「隈研吾建築図鑑」、「誰も知らない日建設計」、「はじめてのヘリテージ建築」、「昭和モダン建築巡礼」※、「プレモダン建築巡礼」※、「絶品・日本の歴史建築」※(※は磯達雄との共著)など
西澤 崇雄
日建設計エンジニアリング部門 サスティナブルデザイングループ
ヘリテージビジネス部 部長
ダイレクター ファシリティコンサルタント/博士(工学)
1992年、名古屋大学修士課程を経て、日建設計入社。専門は構造設計、耐震工学。
担当した構造設計建物に、愛知県庁本庁舎の免震レトロフィット、愛知県警本部の免震レトロフィットなどがあり、現在工事中の京都市本庁舎整備では、新築と免震レトロフィットが一体的に整備される複雑な建物の設計を担当している。歴史的価値の高い建物の免震レトロフィットに多く携わった経験を活かし、構造設計の実務を担当しながら、2016年よりヘリテージビジネスのチームを率いて活動を行っている。