「イノベーションとともにある都市」 研究会 ―vol.04 Brooklyn Navy Yard (ニューヨーク市)―
諸隈 紅花
日建設計総合研究所 都市部門
主任研究員
イノベーション空間のレシピを用いたケース分析第2号
日建グループの「イノベーションとともにある都市研究会」(略してイノベ研)では、建築や都市開発の専門家の立場から、イノベーションが起こる(または起きやすい)空間のレシピ(要素)やその関係性を明らかにしようとしています。今回は「イノベーション空間のレシピ」を用いたケース分析の第2弾となります。レシピの解説は下記 note を参照して下さい。
Brooklyn Navy Yard (BNY)とは
Brooklyn Navy Yard(通称BNY)は、その名が示す通り、アメリカ合衆国海軍の元造船施設です。ニューヨーク市のマンハッタン島の対岸のブルックリン区のウオーターフロントにあり、約121haの敷地を占め、現在は市の工業団地となっています。
1960年代に造船所としての機能の終了後、国から市が敷地と建物を買い取り、周辺住民のための雇用の場としての維持を図ろうとしてきました。脱工業化時代の到来もあいまって、低稼働率の時代が長く続きました。1990年代頃から、運営団体のBrooklyn Navy Yard Development Corporation (BNYDC)が、市内で行き場をなくした小規模製造業をターゲットに、広い空間を区切って貸出したところ、施設の稼働率の向上に成功しました。背景には製造業者や都市計画家らが繰り広げた「製造業維持(industrial retention)」という都市型製造業の保全のための運動があり、ブルームバーグ政権下(2002~2013年)では市長の政策に取り入れられ、都市の中に製造業のための場を確保することの必要性が一定程度認められています。BNYは大都市のニューヨークにおいて手ごろ家賃で広い空間を得ることができない都市型の小規模製造業の避難場所のようになり、満室に近い稼働率を誇っています。
イノベーション政策としては、ニューヨーク市ではブルームバーグ政権以後、戦略的にスタートアップエコシステムの構築を進め、BNY・DUMBO地区・ダウンタウンブルックリンを結んだBrooklyn Tech Triangleと言われる地域にもスタートアップの集積が生まれており(JETRO 2018)、BNYはとくにものづくり系のスタートアップ企業が立地する新天地ともなってもいます。
BNYに着目するポイント
概してスタートアップ企業は資金力がありません。彼らにとって、ニューヨーク市のような地価が高いグローバル都市の市場原理の中で、自力で高い家賃を支払って、立地をするのは至難の業です。BNYは家賃負担能力が低いと言われている製造業向けに、比較的広い空間を市場価格と比べると低廉な家賃で貸出す場として、市が政策的に運営をしています。そこに資金力が弱いスタートアップ企業も入居することで、ものづくりを伴うイノベーション創出の場としても機能している点です。
なお、本記事は、2015年から2018年にかけて実施した私の博士論文執筆のための研究(歴史的工業建築の用途継承による保全方法の研究)に基づいており、現地調査や運営組織のBNYDCらへのインタビューは、同時期に実施しています。(詳しくは参考文献にある論文をご覧ください。)
BNYのイノベーション空間のレシピ
イノベレシピを用いたBNYの分析結果が下図です。
レシピを見ていただけるとわかるようにすべての項目を満たしているわけではありません。強みと弱みを含めて、以下で着目すべき点を解説します。
目的
BNYの設立目的は、イノベーションの創出とは直接は関係がありません。BNYの目的は、製造業の活動の場を維持すること、及び地域の雇用を創出することです。BNYはオープンイノベーションの必要性が叫ばれる以前の1960年代後半に開設されていることがその理由の一つですが、工業都市であったブルックリン地区やNY市の歴史と深い関わりがあります。日本でもNY市の都市再生事例として有名なBrooklyn Bridge Parkやおしゃれな店舗やホテルが並ぶWilliamsburg地区を有するブルックリンのウオーターフロントエリアは、現在では先端的な再開発地帯として有名ですが、19世紀頃から製造業のまちとして知られていました。ブルックリンは、昔から移民や労働者が住む町として知られ、とくに英語ができない移民にとっては手を使って物を作る製造業雇用は、彼らが中産階級にステップアップするためにも必要な手段として認識されてきました。人口の約3割を移民が占めるNY市では、製造業雇用の重要性は移民や学歴が高くない人の雇用政策として一定程度認められています。
要素その1 寛容性と集積
多用途・複合
BNYの主な機能は中小規模製造業のためのスペースを中心とする工業団地です。川に囲まれた都市ニューヨーク市で、造船機能は縮小していますが、今でもイーストリバーを行きかう船の修理のために、歴史的なドライドックが稼働しています。
ブルームバーグ政権以後のBNYには様々な機能が付加されています。BNYが面しているFlushing Avenue沿いにはBNYの歴史や現在の状況の紹介のためのミュージアム、雇用センター、カフェ等の諸機能を兼ねたBuilding 92が整備されています。近年は、BNYの中で働いている人や、NY市で作られている飲食物を提供するための飲食施設がBldg.77の1階に作られています。
BNYが立地する地区は以前から貧困率の高い地区として知られ、新鮮な食料が手に入りにくい「フードデザート」の課題もあり、近年では近隣住民のためのスーパーマーケットの整備も行われています。
BNYDCはデベロッパーに土地を貸し、We Workを基幹テナントとするオフィスビルもできています。
その他にも、BNY内の建物を、有力なテナントが改修し(Duggal Greenhouse)イベント施設として外部に貸し出すケースもあり、ファッションショーや政治家のイベント(2016年にはヒラリー・クリントン氏が大統領選のイベント会場としても使用)としても活用されています。Kings County Distilleryの様なクラフトウィスキーの蒸留所は、自社の製品を提供するバー等の飲食機能をBNYのゲートの近くに設けることもあり、一般の人に開かれた場所も生まれています。
多様な人材と業種
BNYのホームページによると、2022年8月現在、BNYには450以上の事業者、11,000人の従業者がいます。これらの数値からもわかるように、大企業ではなく中小企業が主体となっています。
少し古いデータになりますが、BNY内の業種の内訳は以下のグラフのようになります。手工業的な業種やクラフトムーブメントに代表されるような少量多品種生産の高級な食料品等を含むニッチな製造業が大半を占めます。その他に、市が誘致をした映画製作会社のSteiner Studio等のエンターテインメント事業者もいます。ニューヨーク市は不動産のまちでもあり、建設関係の事業者も見られる等、規模は小さいものが多いですが、多様な製造業者の集積が見られます。
またAdvanced Manufacturingと言われる先端的な技術を用いた新しい製造業者も見られます。このAdvanced Manufacturingに該当するカテゴリーの業種が、イノベーション産業に類する企業とみなされる場合が多くあります。これらの企業には、宇宙飛行士が使う手袋の研究・開発するFinal Frontier Design、火星探査の機械を研究・開発するHoney Bee Robotics、建築のファブリケーションにより新しい建築デザインを体現するSitu等あります。いずれの企業も、大量生産型の製造業ではなく、カスタムメイドの物を作る製造業が多く、クライアントに極めて近いところに立地すること、さらには地価が高く、かつものづくりに必要な広い空間を確保するのが難しいニューヨークにおいて、BNYのような場所が聖域のように確保されている意味は大きいと考えられます。
パブリックアクセス
BNYの公共交通アクセスは残念ながらあまりよくありません。最寄りの地下鉄まで歩いて20分以上かかります。また、敷地も広いため、BNY内の場所によってはさらにアクセスに時間がかかるケースがあります。
近年では、このアクセスの悪さを解消するために、最寄り駅からヤード内を回るシャトルバスが整備され、対岸のマンハッタンとBNYを結ぶウオータータクシーという水上バスの停車場も作られています。また、市全体の政策として自転車専用道の整備も進められているため、マンハッタンやブルックリンの他の地区から自転車で通勤する人もいます。このように、公共交通アクセスの悪さを補う努力がなされています。
さらに、一般の人のBNYへのアクセスも限定されています。これは、工業団地という性質上、安全対策が必要な様々な機械があり、セキュリティ確保のためにも、BNY内は基本的には一般の人が入れないクローズドな空間として運営されています。しかし、先述のように、道路に近い部分には一般の人がBNYのことを知るためのミュージアム的な施設や飲食施設等があり、BNYは少しずつ一般に開かれた存在になりつつあります。
要素その2 連携・ネットワーキング
コーディネート・マッチング
BNY内の企業同士の組織的なマッチングを促す機能は特に確認されていませんが、テナント企業へのヒアリングによると、同じ敷地内にいるということで、企業同士の交流や協業が生まれることはあり、集積のメリットが生かされています。
仮説ベースでの実証実験
テナントの1つとして立地しているインキュベーション施設であるNew Labは、大企業や市と共同でInnovation Studioを運営しています。通信会社のVerizonと組んで、スタートアップ企業が5G活用の実証実験を行う5G Studioや、エネルギー会社、NY市の開発局と組んで、廃棄物、リサイクルシステムの改善をマンハッタンやブルックリンを試験場として行うCircular Studio等の取組が行われています。ユニークな取組としてはコロナ後にReturn to Work Studio(オフィス帰還のためのスタジオ)も設けられており、テクノロジーを利用して安心なオフィス環境に戻るための実験等を行っています。
ハイブリッドなネットワーク
ネットワークの要素も特には確認されていませんが、テナント同士の交流は敷地内や建物内で行われています。
要素その3 アフォーダビリティとサステナビリティ
民間資本
BNYの場合は、基本的には後述する政策支援面でのアフォーダビリティの確保が中心です。前述のNew Labは、Advanced Manufacturing向けのインキュベーション施設として、BNYDCからBNY内の建物を借りたベンチャーキャピタル兼不動産業者が場所を整備し、運営しています。
政策支援・PPP
政策支援による低廉な家賃は、BNYのアフォーダビリティ面での最大の貢献です。ニューヨークは地価が高いため、その大半が賃貸で場所を確保している市内の製造業者は、手ごろな価格で広い空間を確保することが事業上の重要な課題と認識されています。ニューヨーク市の景気が良く、ハドソンヤード等をはじめとする不動産開発が次々と行われる中で、かつては縁辺部であったマンハッタンやブルックリンの工業地帯の地価があがり、製造業者たちが追い出されるようになりました。私がヒアリングを行った製造業者は口々に何度も場所を点々とした経験を話してくれました。
BNYはこのような状況にあって、都心部の近傍で製造業の場を維持するための施設として市が運営することで、比較的安い賃料で製造業者に場所を貸しています。このような場所はあまりないため、施設の稼働率は常に満室に近く、ウェイティングリストもできています。市の施設なので固定資産税がかからないので、それを賃料に転嫁しないことで比較的安い賃料で場所を貸出しています。
リノベーション等の手法
リノベーションはBNYの最大の武器です。BNYの施設の大半は海軍造船所時代に整備された18世紀から20世紀前半にかけて建てられた、いわば歴史的建造物を活用しています。現在のBNYDCのミッションの1つに歴史的建造物の保存・活用もありますが、これは歴史的建造物が保存活用された主な理由ではありません。BNYDCへのインタビューによると、保存・活用の主な理由は、どちらかというと資金力がなかったので、既存建築を活用せざるを得なかったとのことです。もともと造船所の建物は工業用建物として作られていたので、天井が高く、床の耐荷重が高く、建物によっては荷物用のエレベーターがあるなど、今でも製造業用の作業スペースとして使える空間要素を有しているため、その空間を再利用することはBNYDC及びそのテナントにとっても合理的な判断でした。アメリカの歴史的建造物が組積造やRC造のため、日本の建物に比べて耐久性が高いというのも一因ですが、ものを作るための用途を途切れなく継続させたことで、建物が保存されたとも言えます。
要素その4 場の固有性
有形(自然環境・景観・歴史的建造物)
BNYはリノベーションの部分で指摘したように、歴史的な海軍造船所の施設を最大限に活用しており、歴史的な環境の保全に貢献しています。
無形(産業・歴史・文化)
ブルックリンは歴史的に工業都市であり、そのための場を地価の高さにも関わらず維持し続けるBNYは、ものを作る場所としてのブルックリンのアイデンティティを象徴・継承する場所ともなっています。
新しい文脈の構築
BNYには、Advanced Manufacturing(先端製造業)のような新しい産業の受け皿にもなっており、後付けですが、Tech Triangleというイノベーション産業の拠点としてもみなされています。
BNYの意義:地価の高い都市の中に、手ごろな家賃で活用可能な広い空間を政策的に確保している点
20世紀後半から始まるNY市の都市再生の進展により、遊休化したと考えられていた市内の旧工業地帯が住宅や商業を中心とした複合用途への転用により賑わいを取り戻す中で、ブルックリンをはじめとする近隣の区にも開発の波が及んでいきました。その中で土地の値段があがり、それに伴いものづくりの場として使われていた空間の家賃が上がり、家主が貸控えをする中で、都市の中でものづくりをする場としてBNYは聖域のように残されています。余談ですが、コロナ禍で病院で使用するPPEや消毒液等の衛生用品の調達が困難を極める中で、BNYのテナントがこれらを作って、タイムリーに医療機関に提供をしたという逸話もあります。
NY市の都市型製造業には中小企業が多く、高い家賃を払うことができないため、運営組織は、比較的低廉な家賃で、必要な人に必要なスペースを貸しています。先述のように、もともとBNYはイノベーションの場として作られたわけではありませんが、大都市の中にこのように低廉な家賃で使うことができる広い空間があったことで、ものづくり系のイノベーション産業が集まる土壌になったとも言えます。ものづくり系のイノベーションの場は、プロトタイプの試作の機械や試運転の場所等、フィンテックやIT系のスタートアップ起業とも異なり、より広い空間が必要です。BNYのような場所があったことで、地価が高いNY市のイノベーション産業の多様化が実現できた事例と言えるのではないでしょうか。また、シリコンバレーや中関村等の世界的に注目を集めるようになったイノベーションハブにおいて、家賃の高騰によりベンチャーの立地が難しくなるという事例もよく見られます。継続的にイノベーションを生む環境づくりを行うために、市が政策として、スタートアップの立地しやすい場所を確保することの重要性をも示唆していると言えます。
イノベ研の主要メンバーはこの4人です。
諸隈 紅花(執筆者)
日建設計総合研究所 都市部門
主任研究員
博士(工学)。専門は歴史的環境保全、公園の官民連携による活性化。古いものが好きですが、実は新し物好きでもあり、その最先端のイノベーションが都市にどう表出するかに関心があります。
石川 貴之
日建設計 執行役員 新領域開拓部門 イノベーションデザイングループ
新領域ラボグループ プリンシパル
専門は都市計画。大規模再開発やインフラシステムの海外展開業務を経験する中で、様々な地域と組織で人や技術が繋がり、新しい空間やスタイルが生まれる「イノベーション」の空間や仕組みに興味を持っています。
中分 毅
元日建設計副社長。40余年の日建グループでの勤務を経て退任。「工場移転跡地を研究開発をテーマとして再生する」プロジェクトに30年程前に参加したのが、イノベーションに関心を持ったきっかけで、その道の達人から教えを受けた「発展的集積構造」に関心を持ち続けています。
吉備 友理恵
日建設計 新領域開拓部門 イノベーションセンター
2017年入社。新領域開拓部門イノベーションセンター所属。
共創やイノベーションについてのリサーチを行いながら、社内外の人・場・知識を繋いでプロジェクトを支援する。
共創を可視化するツール「パーパスモデル」を考案(2022年出版予定)。