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⑮メアリー・ルノーとアレクサンドロス大王

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三島由紀夫は、太平洋戦争の終戦から6年後の1951年12月、世界一周の旅に向けて横浜港から出航した。朝日新聞の海外紀行の連載にあたり、その特派員として作家は旅立ったのだった。そして27歳の誕生日をニューヨークで迎え、その後パリでは現地の詐欺師に騙され一文無しになったのち、ギリシャ・アテネに到着する。1952年の春。三島にとってギリシャは「眷恋の地」、つまり恋焦がれ憧れた場所だった。この一連の旅行記はのちに『アポロの杯』として刊行された。

――眷恋の地、ギリシャ。
僕はイタリア、フランス、ウィーンに遊んでいったことがあるけれど、そこから先の東側の世界には行ったことがなかった。いや、学生の頃にはイスタンブールに行ったし、なんならモスクワにも滞在していたことがあるから、それは嘘になる。ただギリシャは、なんというか、僕はあんまり興味がなかった。

2022年の暮れ、出張でスペインへ行った。訪ねた先はマラガ。それはそれは太陽のギラリとした強い日差しが似合う、地中海に面した美しいリゾート地で。スペイン語で「太陽の海岸(コスタ・デル・ソル)」と呼ばれる地域に属するスペインの人口第6位の街。

数日しかそこに滞在できなかったわけだけど、仕事の暇ができたらなるべく美術館に足を運ばせようと思っていた。ピカソの生まれた街だから。もちろん「ピカソ美術館」というのが在って覗いてみたけど、それよりもカルメン・ティッセン美術館という19・20世紀のスペイン人画家の絵画を集めた美術館がことのほか良くって。

ピカソと同時代を生きたベルギー出身のシュルレアリスムの画家ルネ・マグリットの企画展がちょうどそこで開かれていた。仕事へ向かう前の数時間、静かな平日の午前を美術館で過ごすのは、日本に居ても、海外に居ても、やっぱりいいもんだなと思ったわけです。

そして帰国して早々、「流行りの風邪」にやられた。インフルエンザすら知らなかった丈夫な体が、これまで感じたことのないような高熱に苦しめられてね。意識も半ば朦朧としながら、マラガで過ごした日々のことを考えたり、ぼんやりと「生きてる意味ってなんだっけなぁ」と考えたり。

そんなふうに思いを巡らせていた自分に下りてきた天啓が、「修士課程で学べ」というものでした。その大学に入るには美術史の知識が必要なんだけど、まったく体系的にはこれまでやってこなかったもんですからね。ホックニーの『画像の歴史』は読んだけど、これは美術史を追いかけられるもんじゃない。

んでね、神のお告げに従って、まずは教材を買ったわけですよ。ゴンブリッチの『美術の物語』。そして「For dummies(おバカさん向け)」という入門書シリーズの美術史版『Art History for dummies(バカでもわかる美術史、といったところ?)』も買ってね、いちから読み始めたわけです。

先史時代のプリミティブアートの若干の退屈さをなんとか乗り切って、エジプト美術、ギリシア美術と進んでいくわけだけど、めちゃくちゃこれ世界史の勉強になるんですね。あれ?アート勉強してるんだけど、なぜかミケーネ文明、ミノス文明、ドーリア人、イオニア人、みたいに世界史ワードも併せて勉強できるじゃん。みたいなね。

それでね、出てきたんですよね、彼がマケドニアの王が。この人こそ、トップ・オブ・ザ・ゲイ・レジェンズじゃん。

アレクサンドロス大王の彫刻(アクロポリス美術館)

はい、アレクサンドロス大王です。彼の親衛隊であり、唯一無二の友であったヘファイスティオンとの固い絆、愛。そしてペルシアの王から献上された宦官バゴアスとのホモエロティックな関係。

歴史は小さなブランコで 宇宙は小さな水飲み場」という森山直太朗先生の難解な歌詞が何を表しているか今もよく判りませんがw、世界の礎を築いた偉大なるこの大王が男性を愛していたということを知るとね、なんだかますますアレクサンドロス大王のことを知りたいな、同じような苦しみや悩みを感じていたのかなと思ったんですよね。

歴史は小さなブランコ。行ったり来たり、また行って、また来て。人間みんな、進歩したと思ったら、またあるポイントに揺り戻される。だから、昔の人がどういう人生を歩んできたのか追いかけてみたい。そうすることできっと救いを得られるはずだとね。そう思うんですよ。

でも、今回取り上げたいレジェンドはアレクサンドロス大王その人じゃない。彼の姿を、文学を通じて蘇らせようとしたイギリスの女性作家メアリー・ルノーなの。メアリーはレズビアンで、愛する女性と自由の風吹く南アフリカに渡り、そこで作家活動を続け、死がふたりを分かつまで仲良く暮らしました。

ローマ皇帝・ハドリアヌスの生涯と彼の恋人を描いたフランスの小説家マルグリット・ユルスナール(彼女もまた生涯を女性と共に過ごした)の影を、エッセイストの須賀敦子(1929~1998)が『ユルスナールの靴』という大作で以て追いかけたように・・・だなんて言ったら怒られるし、足元にも及ばないんだけれど、アレクサンドロス大王と彼にまつわる愛の物語を綴ったメアリー・ルノーの影を、僕なりにここで追いかけてみる。


若さと憂い

Mary Renault(1905~1983)

1905年9月4日生まれ。英・エセックス出身。同時代に生まれた英国の小説家にイーヴリン・ウォー、ジョージ・オーウェル、そしてクリストファー・イシャウッドがいます。ブライト・ヤング・シングスの世代だね。

彼女の本名はアイリーン・チャランズ。ルノーという姓はペンネームで、メアリーという名はミドルネームから取られていました。

メアリーの父は医師で、その暮らしぶりも悪いものではなかったようですが、幸せな家庭だったとは言い難く、両親の不和が幼かった彼女の中に影を落としていたといいます。毎夜繰り広げられる父と母の口論。メアリーは後年、「私がいつも扉を開けて置いたままにしておくのは、幼かった頃に両親が扉の向こうでいつも喧嘩をしていたことのトラウマだから」だと語りました。文筆家の道を志したのも、若い頃のことでした。

それからブリストルの女子寄宿学校に入学。学校の図書室でギリシア古典を読み耽り、卒業するまでにプラトンの著作は全て読了したそうです。1924年にはオックスフォード大学のセント・ヒューズ・カレッジに進学。でも、学業そっちのけで学生劇に夢中だったといいます。

『指輪物語』の作者としてのちに知られることになるトールキンが当時のオックスフォードで教鞭を執っており、メアリーとも面識があった。トールキンは、中世を舞台にした作品を書いてみるようにと彼女に発破をかけたそうな。歴史と文学と演劇と、メアリーにとって大学は様々な興味と知識を育む場ではありましたが、彼女は将来の方向性を定めるところまでには至らずに大学を卒業します。

細々と小説を書いて過ごしていた彼女でしたが、28歳の時にある出来事がおきます。1933年、5年ぶりに訪れた古巣のオックスフォードの傍にあるジョン・ラドクリフ病院を訪れたメアリー。文筆家の夢をいったん諦め、看護婦になることを決心するのです。

彼女が看護の資格を取ろうと思い立った理由は、これまで本人の口からも明確に語られることはありませんでした。一説には、職業作家として自立を目指す彼女をよく思わない父親への反抗心だったとも謂われています。ただひとつ顕かなのは、メアリーが下したこの選択が、運命の出会いを彼女にもたらしたということです。

看護学校で研修を受けていたころ、メアリーが演劇に興味があることを知った同僚が「きっと彼女と気が合うだろう」ということでジュリー・ミュラードという女性をメアリーに紹介しました。ジュリーはメアリーよりも学校の年次が上でしたが、年齢は8歳下でした。二人が出会った時にジュリーは21歳だったので、メアリーはその頃には既にアラサーですね。

関心事が似通っていたことから会話が弾んだ二人は次第に惹かれ合い、その関係はロマンティックなものになっていきます。普通の人とは違う世界――同性に心が惹かれていく世界にお互いが属していることを、出会った時から感じていたのでしょう。

そのころの英国ではホモセクシュアリティが法により禁じられていたことは何度かこのシリーズで触れてきたけれど、同性愛文学というのは英国にも確かに存在していて、女性同士の関係を描いたものとしては、ラドクリフ・ホールという女流作家が1928年に発表した『孤独の井戸』なる小説が当時話題となっていました。この本は英国では猥褻図書として発禁処分になるものの、アメリカで出版され多くの読者を得ることになりました。メアリーもかつてこの作品に触れた一人です。

戦禍と自由への道

看護学校での研修期間が明けて、メアリーが看護婦として働き出したころ、ヨーロッパは不穏な空気に包まれていました。そう、第二次世界大戦です。メアリーはブリストルの病院でダンケルク戦の負傷兵たちを看病し、さらに1945年まで脳外科病棟で勤めました。戦禍のなか、メアリーと恋人ジュリーは、互いの勤務地がばらばらに遠く離れてしまうこともありました。さらにジュリーは男性から結婚の申し出を受けることもあったようですが、彼女たちは二人だけの秘密の関係を育み続けます。

冒頭でマルグリット・ユルスナールという作家がいたことを紹介しました。メアリーは古代ギリシアを舞台に作品を書きましたが、ユルスナールが選んだ題材は古代ローマでした。ユルスナールは1903年にフランスに生まれ、メアリーとも生きてきた時代が重なります。ただ、ヨーロッパの戦況から逃れるためにアメリカにわたり、半ば亡命者的に故郷と分断されたユルスナールの人生は、メアリーのそれと比べるとかなり不遇だったかもしれません。

ナチス・ドイツがポーランドに侵攻する1939年9月のひと月前に、ユルスナールはアメリカ人の恋人グレース・フリックと共にヨーロッパを後にしました。まさかその後11年もアメリカで暮らすことになると思いもせずに・・・。戦争の勃発によりヨーロッパに戻ることができなくなったユルスナール。これまで書き溜めていた原稿も置き去りになりました。

 41年の復活祭の日、旅先のチャールストンから、かつて愛したギリシア人の女ともだち、ルシー・キリアコスに宛てて、たぶん絵はがきだろう、彼女はみじかくしたためる。
「本当に大切なルシー、サン・ジョルジュに行ったときのこと、あなたはおぼえてる?(みんなによろしく)たった1年まえのことだったのね。(・・・中略・・・)
いつになったらわたしたち、会えるのかしら。いやな時代だけれど、生きていれば、いいこともあります。
こころをこめて、    マルグリット」
 だが、投函しそびれているうちに、ルシーはほぼ1年後、空襲で落命。出しそこねた絵はがきは、差出人の手もとに残った。

須賀敦子『ユルスナールの靴』

一方のメアリーは1939年に"Purpose of Love"という小説を世に出します。メアリー自身の看護学校や病院での勤務経験を題材に作られてました。看護婦の主人公ヴィヴィアンは、医師のミックと恋仲になりますが、ミックはヴィヴィアンのお兄ちゃんに恋しちゃって・・・というあらすじらしいです。

ナチスが降伏し第二次世界大戦の悲劇に終止符が打たれたあとも、メアリーは看護婦として働きながら筆を執り続けていました。転機となったのは1947年に発表した小説"Return to Night"。メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社が当時選考を行っていた文学賞を受賞し、15万ドル(現在の価値に換算すると200万ドル=2億円相当)もの大金を得る機会に恵まれるのです。これは当時の看護婦が、一生で稼ぐことができる額をはるかに超えていました。しかし、当時の英国の法律によってこの賞金には多額の税金が課されるので、メアリーの実際の取り分は賞金の20%ほどだったそうです。

メアリーと恋人ジュリーは、女性ふたりで愛しあうことが許されない英国を出て、南アフリカへと移住を決めました。そこには、彼女らと同様に遠い故郷から自由を求めてやってきたゲイたちのコミュニティがありました。圧力と恐怖から逃れて、メアリーとジュリーは一つ屋根の下で暮らすことができるようになったのです。そして、貧しさからも、世間の冷たい風からも解放されたメアリーは、ようやく腰を据えて創作活動に取り組むことができるようになりました。

恋人ジュリー・ミュラード(左)とメアリー

南アフリカに向かう途中で、2人はピーター・アーンという若い英国人俳優と彼のパートナーだったジャック・コークと友人になります。たまたま意気投合したのか、それともメアリーが大金を持っていることを知った男たちのカモにされたのか、南アフリカへと移住してきた人たち向けの住宅販売ビジネスへの出資話を持ちかけられ、メアリーはそれを承諾します。しかしこれが思わぬ波乱を招くことになります。

ピーターとジャックは事業に精を出すどころか、資金を利用してパーティー三昧の日々を送るなどして、影でメアリーたちを裏切るような行為をしていました。メアリーが所有していたスチュードベーカーの中古車を横取りされ、次第に男たちの悪い企みが明るみになるとメアリーとジュリーは法的手段を取って彼らと手を切ることになります。南アフリカ・ダーバンの土地で、かろうじて出来上がった3棟の建物がメアリーの元に残りました。

何事もなければ新天地で不自由なく暮らせたはずが、生活資金も底をつき、恋人ジュリーはダーバンの病院で看護師の仕事を始めます。そして幸か不幸か、メアリーにとっても、再びペンを握るときがやってきたのです。

改めて同性同士が織りなす恋の綾をなにも恐れることなく大胆に書くことを決めたメアリー。1953年に"The Charioteer"という小説を発表します。

"The Charioteer"とは、馬を駆る御者の意味ですが、そもそもこの小説に描かれている題材もギリシャ哲学の影響を受けています。ストーリーは、第二次世界大戦で負傷した主人公・ローリーが心優しき看護師アンドルーに出会い、次第に恋に落ちるのですが、かつての初恋の人ラルフがある日突如として現れ、ローリーは、清く生きることと同性愛の快楽に身を任せることの二つの心の間で揺れ動きます、といったところ。

ある批評家は、ゴア・ヴィダルの『都市と柱』、ジェームズ・ボールドウィンの『ジョバンニの部屋』に並ぶゲイ文学の記念碑的作品が"The Charioteer"であると、この小説を賞賛しました。

彼女の取り扱う題材は"The Charioteer"を境に、現代から古代ギリシアに移り変わるのですが、この作品はターニングポイントでありながらも既にこのギリシアの影響を受けていることは述べたとおりで、特にプラトンの思想が強く垣間見えるようです。

"The Charioteer"の主題ともいえる「イデア的な美」を追求する恋と、破滅に向かって行く恋の対比は、プラトンの『パイドロス』における「良いエロスと悪いエロス」が下地になっています。タイトルの「Charioteer(御者)」というのもまたプラトンが「人間の魂とは、良い馬と悪い馬の二頭立ての馬車(Chariot)を手綱でひく御者のような似姿である」と説いたところから採られていることは間違いないでしょう。

黒馬と白馬を馬車を操る御者

古代ギリシアの同性愛というものが一体どういうものだったのか、サー・ケネス・ドーヴァーの文献でも次の通り詳しく記述されているのですが、プラトンの作品では同性愛の描写が、かつての世界では自然で当たり前のことと記されています。

『ファイドロス』で推奨されるエロスは同性愛的反応から始まるが、魂の「御者」は善き馬と悪しき馬を御しながら、悪しき馬が美しい少年を見てたちまち淫らな愛欲の誘いかけをするのを阻止しなければならない。稚児(恋される少年)が「獲得」される経過を説明するときの用語は極めて愛欲的である。魂の御者は美しい少年を見るなり「むず痒さ」と「欲望の突き上げ」を覚える、念者(恋する男)は「体育場その他の交わりの場で」稚児につきまとう、稚児は念者の情に感極まって抱擁と接吻を返し、彼と一緒に寝たいと思い、どんなことでも拒まないという気になる、もし二人の哲学への熱意が不十分だと、油断した一瞬に誘惑に屈することにもなる、といった具合に。

ケネス・ドーヴァー『古代ギリシアの同性愛』

プラトンの『饗宴』や『パイドロス』は、恋(エロス)を主題に話が展開されていきますが、ここでいう恋は同性同士の恋(念者と若衆の関係)を指しています。年上の男性が、(顔に産毛が生えそろえる前の)若い年齢の男性と関係を持つことは、少しも可笑しいことではなかったのです。年長のものが年少のものを正しく導いていくべきだ、そして恋こそが、ひとりの人間が「善」という極致にたどり着くための道程であるとプラトンは言います。

とはいえ、恋し方が問題です。誘惑に溺れ、なすがままに放縦に快楽を味わおうとする、そんな恋は悪で、そうじゃなくて美や真理や善を追い求めていく恋し方を目指せ、と。そうした恋を知る人の背中には翼が生えて、天馬行空のごとく「善」の世界へと駆けて行ける、というわけです。都会で自由気ままなゲイライフを謳歌していちゃいけないよ、ってのは私の自戒ですけど。

プラトンの話でもうひとつ面白いのは『饗宴』のアリストファネスの話。昔々、人間は二体がくっ付いた球体のような形をしていて、ひとつは男・男がくっ付いた球体、もうひとつは女・女がくっ付いた球体、そして男・女がくっ付いた球体だったと。彼らはあまりに力をつけ過ぎたために、ゼウスの怒りを買い、稲妻によって分断されてしまったと。それで今の人間のような姿になりました。そして球体だったころの姿に戻ろうとして、人間は自分の片割れを探し続けるのだ、というように恋愛という感情を解説するのです。

これは『饗宴』の中のひとつの挿話であって、プラトンが恋愛とは「片割れを探し求めること」と定義したかったわけではありません。逆にこの説は不十分であると、プラトンは『饗宴』のなかで登場人物に語らせるのです。とはいえ、機智に富んだこの言説は、映画「ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ」のストーリーにも受け継がれています。

ペルシアの少年

さて、1956年から81年にかけて、メアリー・ルノーは8本の作品を書きますが、全て古代ギリシアが舞台の歴史小説でした。ギリシア神話のテセウスにまつわる物語、そしてアレクサンドロス大王を主題にした三部作。これらは当時も高い評価を得ていました。

1950年代当時、歴史モノの小説や映画と言えば「古代ローマ」が王道でした。ハリウッドでは、暴君ネロの時代を描いた「クォ・ヴァディス」が撮られ、文壇ではユルスナールが『ハドリアヌス帝の回想』を出版していました。いずれも華々しくドラマチックな、血なまぐさいローマが描かれます。そうした時代にメアリーは「美」「哲学」「魂」といった精神性を重視するギリシャを選ぶのです。

古代ギリシアがどのような世界だったのか、今のようにグーグルで検索できるわけでもないですよね。ではいったいどのようにして小説の中で鮮やかに「いにしえの情景」を再現したのかというと、彼女は「壺絵」の図録を見て参考にしたんですね。名著『古代ギリシアの同性愛』を書いたドーヴァーも同じようにして壺絵から当時の同性愛のディテールを得ていました。

"The Charioteer"(1953年)から3年後、"The Last of the Wine"という作品を発表します。これは彼女にとって初のペロポネソス戦争時代のギリシアを舞台とした作品で、前作に続いて同性愛を主題にして展開されています。

それから、メアリーの「アレクサンドロス三部作」は、大王の青春時代を描いた"Fire From Heaven"に始まり、続いて奴隷(同時に大王の恋人でもあった)バゴアスの視点から大王の黄金期と死去を描いた"The Persian Boy"、そして王の死後の世を描いた"Funeral Games"で幕を閉じます。

アレクサンドロス大王の恋愛対象については多くの研究者が顕かにしている通り、女性よりも男性の方に傾いていました。ヘファイスティオンという幼馴染みがおり、成長するとアレクサンドロスの側近として仕えるのですが、二人は「友情を超えた友情」ともいいましょうか、体と体で互いの心を通わせ合う、そんな関係だったようです。翼の生えた二人だったことでしょう。

そんな若き王のもとに、あるとき美しい奴隷の少年が捧げられました。バゴアスです。かつてバゴアスはペルシアの王ダレイオスに仕えていましたが、アレクサンドロスによってペルシアが制服されるとともに、バゴアスの主人はアレクサンドロスとなりました。

ペルシアで去勢をされた少年バゴアスにとって、王に愛されることが使命であり仕事です。カーマスートラ顔負けの愛のテクニックを習得し・・・大王はメロメロ。1972年に発表したこの"The Persian Boy"では、この少年バゴアスを主人公に、アレクサンドロス大王の人間としての一面や、側近ヘファイスティオンと大王の仲睦まじい様子にバゴアスが嫉妬する様子だったりが描かれ、歴史小説というジャンルながら非常に親しみやく、また感情移入のうながすような巧みな文章がつづられています。

歴史家はふつう、史実をありのままに、忠実に書くことが求められますが、メアリーは小説家ですから、歴史という素材を利用して、自分が表現したいことを自由に表現できました。じゃあそれはなんだったのか。

いつの時代も変わらない、普遍的なこと。人を愛すること、人を想うこと、想いを重ね合い、通じ合うこと。紀元前のギリシアであれ、メアリーが若い日を過ごした20世紀のロンドンであれ、今この2024年の日本であれ、いつの日も変わらないものがある。メアリーはアレクサンドロス大王という男を通して、そのメッセージを教えてくれます。

彼女自身の同性愛に対する姿勢については、あまりにも控えめすぎるという声もあったようですが、それは彼女が同性愛をあくまでも「普通の人間の性分」「自然で当たり前のこと」と捉えていたからで(ギリシア世界でそうだったように)、人が人を愛することは、性別など関係なく普遍的な感情・行為であり、それを通じて善き人になれるのだという洗練された考えが根本にあります。彼女が描いたのはアレクサンドロス大王は、威厳や奇蹟を称えられるような「立派なアレクサンドロス大王」の姿ではなく、人生の喜びと哀しみを知り、困難に面しても前を向き歩き続ける、そんな僕らと同じ、「ひとりの人間」だった。

だからこそメアリーの作品には、深く僕らの心を揺り動かす。ケネディ大統領もかつて、好きな作家は誰かと訊かれてメアリー・ルノーと答えたんですって。

遠くにありて

さて、メアリーがギリシャの地を訪ねたのは驚くべきことに、1954年と1962年の二度だけだったのです。メアリーは考古学者でも古典学者でもありません。それでも、壮大なギリシャの世界を小説に描き得ることができました。彼女が作品の中で再現したギリシャは細部まで描写されていましたが、「アラビアのロレンス」で知られる作家ロバート・グレイヴスの(賛否両論の)文献に頼っていた部分も大きいようです。

また、アレクサンドル大王の描写があまりにもロマンチックだと批判されることもありましたが、作品が発表されてから何十年も経った今でも、アレクサンドル大王の姿を描いた作家と言ったらメアリー・ルノーを最初に思い浮かべる人が多いとな。

最愛の人ジュリーと永住の地・南アフリカのケープタウンで暮らしていたメアリーでしたが、ある日、咳をこじらせて病院に行くと、肺がんを患っていることがわかりました。ただ、ジュリーはメアリー本人にこの事実を伏せていました。そして、1983年の12月13日、穏やかに息をひきとります。78年の生涯でした。

誰かを愛し、それを悦び、ときにそのせいで苦しむこと。そうした経験を通して、いつか僕らは美しいその瞬間に出会い、たどり着くべくその高みに達することだろう。人生の旅とは、ただ単に生きていくことではなく、愛することが人生の旅なのだ。愛の中で知ること、見ること、味わうこと、表現すること、たどり着くこと。僕がメアリー・ルノーを通して伝えたかったことがなんだったのか、書きながらわかったような気がした。

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