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世は儚いもの

久しぶりにほっこりするお話を読みました。

「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」
平家物語の冒頭の言葉です。恥ずかしながら高校生になっても祇園とつくからには京都のお寺のことだとばかり思っていました。


「祇園精舎」はお釈迦様がご在世の昔、給弧独長者(ぎっこどく長者)が布施をしたお寺の名前であることを知りました。

修行中の弟子たちは死が近づくと、祇園精舎の中の無常堂に入って命が終わるまで祈りました。そのお堂の四隅の軒に鐘が吊り下げられており、修行僧が命を終わろうとするときに響かせて極楽浄土に導いたとされています。
きっとその音色は寂しい、悲しい、切ないというよりも送り出す側にも穏やかな響きだったのではないでしょうか。


また一切の物は永久でないこと。人の命にも限りがある。
この世のはかなさを説いておられると思っていましたが「ありのまま」の大切さを知るということでもあるそうです。

前世、後世があると思うのか、只々自然の一部として土に還るのか知るすべはありませんが、その人が納得でき信じることが出来るならそれが信仰だと言えるのかもしれません。

人間の体、心も諸行の一つですが、そこにとどまらず宇宙全部が諸行だと思えたらすべて無でできた世界に生きる私たちです。

そんな世の中で、私たちは森羅万象すべての物が露と消え、また生まれることを分かっているようで、永遠を求めてしまう癖があります。

人の出会いも、友達、子供、夫婦、両親、たまたま巡り合ってその時を共にするはかない存在ですが、それだからこそ一期一会を大切にしたいものです。

釈迦のお話の中にはこの世はすべて無常であることがいろんな場面で説かれています。

ある少年が七歳になった時両親は嫁を選んで結婚式をあげることになりました。

いよいよ婚礼の日親族たちは少年に豪華な衣装を着せて盛装させると

行列を作って少女の家にと向かいました。

幼くて可愛い花嫁もきらびやかな衣装に身を包んでいます。ある長者がお祝いの言葉を述べました。

「花嫁さん!あなたのひいおばあさんのようにいつまでも美しく長生きして幸せになってください。そしておばあさんのように一族中から尊敬されるようにね。」それを聞いた少年は嬉しくなってそのおばあさんを探しました。

すると親せきの一人が「目の前にいますよ!あの上座の120歳の白髪で杖をついている人がこの子のひいおばあさんですよ。」少年はびっくりして「えー、あのしわくちゃでシミだらけの梅干しばあさんが?」いくら100年先とはいえあまりのショックで少年は逃げ出しました。7歳ですもの!私もお婆さんは初めからお婆さん、子供はずーっと子供だと思っていました。

ともだちはスマホ写真は必ず修正バージョン。10歳は若返って見えますが、実際のギャップにショックを受けるそうです。
この世にあるものはすべて壊れやすく今ある美しさもいつかは朽ちていく。親や自分の寿命さえ保ち続けることはできないということです。
    一日を大切に今日を慈しみたいと思います。

今日もいい日にしましょう!

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