「想像を超えるものができる危険性」
まず、どこまで意識から空間を切り離すかを考える。
色彩も本来ならアクローム構成が望ましかったのだけど、そこはやはり家、傷も付くし汚れるし人の生活が刻まれる。
飾るアートと生活感の兼ね合いを見たときに、せめてモノクロームにと新福島の土壌のタービダイトの色彩に合わせたグレージュで行こうかと。
壁面の収納以外は高さ730mm以下に納まる計画とし、へそ下の意識の外れる距離感で、さらに没頭しやすい空間ができないものかと頭を抱える。
「空間をアートとする」みたいなダンフレイヴィン的作品も好きな施主のだから、なんとかインスタレーション性も持たせてあげたいのだが、それは民藝の狭間との葛藤となって随分思い悩むわけである。
どこまで対応できるようにするか?が随分と悩ましい、困った。
モデリングを使って空間成形するのだけど、解像度の高さからしばしば想像を超えるものができる危険性も孕むのが恐ろしく感じる瞬間があって、要は解像度の高さくるバランス補正の強制力があるためアイデアが追い詰めることができずに終わるということも十分にあり得るんですよね。
脳や心を別で設けて神経接続でもしない限りは心と手は繋がっていて、手とデバイスは繋がっていないわけです。
デバイスやPCはあくまで手先の道具でしかないんだなと寂しくなる時もあるけれど、直に素材に触れながら作るアイデアは思考速度との関係項から生まれるわけで、それは実に素朴で豊かだと思うのです。
脳と手の速度が似てるため、手捏ねによるアイデアをサディスティックに追い続けることもできるわけです。
時速300kmの車に対応できる神経を、我々は持ち合わせていないわけですね。
メタバースが我々の第2第3の故郷になった時、おそらく何かしらのデバイスに神経接続される事態となるのでしょうけど、その時に初めてデータや道具に心が宿るのかもとも宿って欲しいとも思います。
そうなってきた時の我々の身体性は実に義足的で「どこまでが自分なのか」みたいな「自身の器」を明確に決定づける必要が生まれて、そうしなくては自分でいられないような精神性となり得るわけです。
感性も感情も知識も記憶も神経も時期にデジタルに神経接続される日が訪れた時、これまで我々が誤魔化して続けてきた「お前は誰だ」を改めて突きつけられるような気がしてならんのです。
その道は随分と美しいと思うのだけど、「地獄への道は善意で舗装され実に美しいのである」というベルナルドゥスがひょっこりはんしてきそうで恐怖です。
記憶とデータ、自然とデジタル、人工と自然、機械と人間、心とプログラム、そのどれもが曖昧になり始めていると感じていて、その行く末は自分という個は失われ「私たち」が主語になり、snsは墓になり、死人も生き続けるのではと。
その程度には我々はモノクロームで、僕はそれを随分美しいと思う。
「魂とは肉体の形相」