「捨てきれないならせめて愛するべき」
ムーブメントとしてのミニマリズムに位置付けられるのが今回のギャラリーメイクなリノベーションで。
概念や意味すらも削ぎ落としてしまうのがミニマリズムの本質で、削ぎ落として削ぎ落としてただの箱になってしまったみたいなドナルドジャッド的な世界線まで辿り着けたら良かったのですが、やはり家は装置なのでどうしても用途までは取り除けず。
用途が生まれると意味が生まれてしまい、コンセプチュアルとの狭間でもがきながら、「機能を持たせるのだ」と脳内の柳宗悦に罵られつつモデリングを捏ねてました。
家から機能を外したらどうなるのか?と考えた時に改めて家は用途の複合装置だと確信するわけです。
ミニマリズムになりきれないのであれば、せめて用途の持つ意味だけでも整えてあげたいなと思うわけで、コンセプチュアリズムを羽織ったミニマリズムみたいな感じで。
ではコンセプチュアリズムとはなんなのか?を考えた時、言葉や数字の素材化にあるわけです。
それは非常に欺瞞的でマスターベーションな行いなわけです。
例えばキッチンの高さ設定の860mmやトータルの素材数の15個をメタクリルのモル質量と紐付けてみたりするわけですが、誰にも理解してもらわなくて良いし、施主に対してもわざわざ説明なんてしないですし。
そう言ったプロセスの中で、どれだけ手を使いながら削ぎ落としていけるか?なんですよね。
どの程度の人と用途の関係項を作れるか?みたいな健康の美だったり、どの程度の余白を持たせるか?の用の美だったり、どれだけ空を見出せるか?の無心の美だったり、どれだけのコンテクストを塗れるかの伝統の美だったり。
みたいなことを考えて考えて考えてものづくりに耽るわけですが、考えた結果全て忘れるというミニマリズムも愛したいと思うのです。
「同じ川には二度と入れない」