自分がされて嫌なことは、他の人にもしてはいけない
子供の頃から、母親に『自分がされて嫌なことは、他の人にもしてはいけない』とよく言われていた。それは、確かに他者への思いやりや、生きていくため、周りとのコミュニケーションを円滑に図るためには、大切なことだとは思う。
だけど、私はその言葉に素直に、そして縛られすぎて生きていた。
そう気が付いたのは最近だった。
そして思った。嫌なことって人それぞれだよねって。
私が嫌だと思う事でも、他人にとってはなんでもないってことだってあるんだよね。
その逆もあって、私が別に気にならないことでも、他の人にとっては嫌なこともある。
だけど『私は、わたしがされて嫌なこと』にだけに縛られていった。どんどん、どんどん。そして、それはもっと!もっと!と、過剰なくらいに大きくなっていった。
そして『こうしたら相手に嫌な思いをさせるかも』『こう言ったら相手は嫌な気持ちになるかも』そういうものが、瞬く間に大人になるにつれて増えていった。
気にすれば気にするほど、果てしなくそして無限に続いた。
永遠に終わりはなく、どこまでも周りの人の顔色を伺うことばかりに囚われていた。
その行為は、さらに自分を追い詰めた。『もっと。もっと。まだ足りない。まだ足りない。私は周りに気を遣えているのか。私は他者に嫌なことをしていないか』そんな気持ちに、どんどんと支配され、いつしかそれは自分が周りに嫌われないようにするための手段として、私の中で固定されていった。
その間違った手段は、どんどん自分を追い詰め、蝕んでいった。結局、自分自身を生きられていなかった。常に周りに目が気になり、言動が気になり、他者からの評価ばかりを意識するような生き方になっていった。
そんな生き方で、楽しいわけがない。本当の自分を生きていない人生。そんなことばかり気にしていた私は、『生きづらさの塊』になっていた。
子供の頃に植え付けられたそんな固定観念は、そう簡単には覆せない。苦しいのに変えることが出来ない。
人間の脳は変化を嫌う。それが例え、どんなに辛く苦しいことであっても、脳がそれを拒否する。だからこそ、小さな習慣ですら変えることが容易ではない。ただ、習慣化させるには3週間続ければいい。
しかし、鬱病の私には、その行動力が欠如し、意欲も低下し、思考もまた停止していた。それでも私は意識することを辞めなかった。ほんの少しでいい。小さなことでいい。昨日出来なかったことが出来たらいい。他人にとってはくだらないことでもいい。何も出来なくてもいい。ただただ、今日も生きたということだけで、自分を褒めてあげていい。
とても不思議だけど、自分自身を生きていないと、身体と心がストップの指令をだしてくれる。正確には、身体と心が危険だと認識して、ストップさせてくれる。自分の身体なのに、自分の考えなのに、それを変えることが出来ないまま生き続けると、ちゃんと身体はストップサインを出してくれるんだ。
『もうそれ以上はだめだよ!』って。
そして、そんな無理をしすぎている自分に気が付くこと。それが大切。
無理をしている自分に気が付いて、自分をいたわり、癒し、優しくしてあげて、頑張ったねと認めてあげること。
それでも私は私自身を認めるとか、癒すとか優しくって意味が分からなかった。どうしたらいいのか分からなかった。
よく他人軸、自分軸と聞くが、私はまさに『他人軸』で生きていた。他人軸で生きていると、生きづらくなる。
ただ、同じように他人へ行なっている行動でも『自分が楽しいから。自分が嬉しいから。自分がやりたいからやる』そう思えて行動している人は、自分軸で生きられている人。あくまでも『自分』というものが前提にあるからだ。他人の評価は関係ないだから、自分が自分のためにやっているから、そこには苦痛はない。
こうしてたくさん学んで教わってきた事。自分で勉強してきた事。そんなことが、少しでも同じような苦しみや、辛さを持つ人の、小さな小さな力に少しでもなれたら私は嬉しい。
そう。これは私がやりたいからやる。たとえそれがひとりでも、何かのきっかけや、力になるのであれば、私が嬉しい。だから私は私が経験してきたこと、感じたこと、学んだことを発信したい。
長い文章をここまで読んでくださってありがとうございます!!( *´艸`)