国語科新指導要領から考える文学の価値

前回は、国語科の新学習指導要領や大学入試改革について提言がなされている東京大学文学部広報委員会編『ことばの危機 大学入試改革・教育政策を問う』(集英社、2020)を取り上げた。

今回は、国語科の新学習指導要領について、以前から考えていることをその意義と問題点に分けて記そうと思う。

1 「新学習指導要領」の意義

「論理的な文章」と「実用的な文章」を教材として扱う機会が増えること自体は、現代においては必要なことだと思われる。

情報メディアが必要以上に発達し、SNSが生活に浸透している現代においては、「情報」が常に氾濫している。ここでいう「情報」とは単に情報をいうだけでなく、それに付随する人々の考えや意見も含む。この「情報」は、多くの場合文章によって表現される。したがって、その文章を正しく解釈することが非常に重要となる。

「解釈の正しさ」というのはその基準の曖昧性から国語教育においては大きな問題とされる。しかし、「情報」の読解のみについて言えば、その性質として「発信者の意図」と「本文」は不可分であり、「本文」から「発信者の意図」は一意に定まるという前提のもとで、解釈の正解としての「発信者の意図」を「本文」から的確に汲み取ることが求められると言える。

また、それと同時に「情報の確からしさ」を見抜く必要がある。ここでは、「情報の確からしさ」とは「情報」自体の正しさのことでもあるが、表現者の意見の論理的正当性のことでもある。「情報」が氾濫する現代においては、論理的でない「情報」も非常に多く存在する。したがって、この論理的正当性をきちんと見極めることが「情報」の扱い方として非常に重要であり、そのような能力を国語という教科で身につけさせるために「論理的な文章」と「実用的な文章」により重きを置くべきだ、というのが「新学習指導要領」の趣旨であると考えられる。

2 「新学習指導要領」を考える

1で見てきたように、今回の学習指導要領の改訂は現代社会の趨勢を踏まえた上では理に適っているものと思われる。ただ、このような論理的正当性を見極める力は本当の「国語力」であると言えるだろうか

1で国語教育における「解釈の正しさ」について触れたが、その問題はすなわち、正解を一つの読みに限定するか、それとも様々な読みを広く認めるか、という問題である。どちらの考えも十分な根拠があり、理に適ったものである。現代のような情報が氾濫する社会(膨大な情報を受け取り、また自分自身も全世界に情報、意見を発信することができる社会)においては「文章を正しく理解する」ということが必要であり、その観点においては「正解を一つの読みに限定する」ことが重要視されるべきだと考える。しかし、文学という観点から見れば、むしろ真逆の考えになるのではないか。

「論理的な文章」は、一つの視点でしか物事を捉えられない。多面的に見ようとしても、結局のところそれは一人の筆者の考えの中での多面性であり、完全に多面的ではない。「実用的な文章」についても、何か一つの事柄について説明しているだけであり、そこに想像の余地はない。なぜなら、これらは、本来的にある一つの考えや事柄をできるだけそのまま読み手に伝えるという前提のもとに書かれているからである。そのため、解釈の多様性はできるだけ排除されるように構成される。

しかし、現実というものはそのような一人の視点、一つの事柄で成り立っているわけではなく、それぞれの視点を持つ多くの人々が集まることで様々な出来事が同時多発的に起こる。これは文学作品においても同じである。作品によって世界の表現方法は全く異なるが(またそれも一人の視点としての筆者の考え方を反映している)、登場人物の心情が描写されたり、第三者的な視点が導入されたりする。このようなことは文学作品ならではの世界の表現方法であり、また、ことばで表現された部分でのみ世界が進行しているのではなく、ことばには表現されていない部分についても同じように世界が広がっていることを想像させる

文学作品とはそのような多面的な世界の一端を表現しているのである。文学作品の言外にはそのような広い世界があり、文学作品を読む上ではそのことを念頭に置きながら読むことが必要である。世界が多面的なものであることを知ることは、社会の中で生きる上で非常に大切なことである。自分以外の他者は自分とは異なることを感じ、考え、社会の中で様々な行動をしているということを文学作品から感覚的に学び取ることが、人生を豊かにすることになるのである。

なお、このように文学作品を読んでいく上でも、読み手がむやみに言外の世界を解釈してはならない。本文から読み取り得る範囲内での一定の論理に基づいて解釈をしていくことが必要であり、そのような解釈の妥当性のもとで様々な解釈が認められるのである。

文学作品を扱う機会が減少することに対して、「文学は実学的ではないが、人生を豊かにするものであるという点で重要だ」という議論がある。この議論については以下のような反論が考えられる。これは文学を芸術文化の一つとして捉えることによる意見であるが、芸術としては美術や音楽なども文学と同列に扱うことができるはずである。そうすると、教科としての美術と音楽の授業時間数が少ないのと同様に、国語における文学に当てる授業時間数が少なくても良いのではないか、ということになる。

しかし、実際には文学というものは他の芸術とは異質なものである。文学の表現に用いられる「ことば」というものは生活に密接したものである。「ことば」は自己表現やコミュニケーションの道具であり、他者と生きる上では不可欠なものである。すなわち、文学(小説や詩など)とは「ことば」を用いた芸術のことであり、「ことば」の可能性を最大限に引き出した言語表現なのである。

「ことば」を使用して生きていく上では、このような「ことば」の可能性について学ぶことで、より多様な表現が可能になると思われる。そして、その「学び」とは単に表現技法を教授されるのではなく、様々な多くの作品に触れることで感覚的・経験的に学びとることを意味する。そのように「学ぶ」ことによってのみ、実際に活用できる生きた「国語力」が身につくのだと考える。だからこそ、このような力は一朝一夕に身につくことはなく、授業の中で長い時間をかけて育んでいくべきものなのである。

3 まとめ

以上に見てきたように、現代において「論理的な文章」と「実用的な文章」を学ぶことの重要性は以前より高まってきており、そのような学習の時間を設けることは有意義ではある。しかし、文学作品はそれらとは全く性質が異なるものであり、独自に重要なものである。したがって、国語という教科内で「論理的な文章」「実用的な文章」を増やす代わりに文学作品を減らすことは好ましくない。

なお、情報を正しく捉える能力は国語のみならず他の科目にも大いに関わることであるから、国語科にだけその役割を担わせるのではなく、今後の教育では全ての教科において、そのような能力を身につけていけるような指導法が必要であると思われる。

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