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「私は、美しい。」という自己肯定【極私的考察】

今日も、生きています(これは昨日の続き)。

私は、「美しいかどうか」に、めちゃめちゃ左右される人間です。

仕事柄、アートセラピーを取り入れた一般参加のワークショップもやるのですが、十年ほど前のこと。チームで企画したワークショップ名が、既に決まっていて、「その名前はっ!美しくないっ…ううゔ!!!」と半泣きで抗議したことがあるメンドくささを持っています。(その節はすみませんでした、若気の至り。)

一般的な美醜の評価でもなく、ルッキズムに迎合しているわけでもなく、
物事に対して、自分の感性で捉えた時、美しいと感じるかどうか。

美しい or ナッシング。

そういう頑なさも歳とともに和らいで、丸くなった自分に安堵するこの頃です。

さて、昔の恥を晒したところで、
今回の【極私的考察】は、「美しさ」の感受による自己肯定への発展、という視点から考察を述べていきます。レッツゴー。

目次
1. 人は何を「美しい」と感じるのか?
2. 快の情動は、幅広い。
3. 「私は、美しい。」という自己肯定
4. 日本的心性と自己肯定の相性

1. 人は何を「美しい」と感じるのか?

ヒトは対象物を見て、
時として「美しい」と感じる。

美の基準は、個人の感性による部分が多く、一定の定義はないのです。
個人的趣向では語れないので、
ちょっとドライなんだけど、脳機能から考察していきます。

美の認知過程において、絵画を「美しい」と判断しているときには
眼窩前頭皮質中央部の脳活動が関連するという結果があり、
眼窩前頭皮質は報酬系(reward systems)の一部として位置づけられ、
快の情動体験と密接に関わっていることが知られている。
(注1)

何かを美しいって言いたい時、
無感情で「ウツクシイデスネ」とはならんですよね。

「美しい!!」とか「う、美しい…」とか「ワアァーっ(美しい)」とか、
感情が動いている表現になる。これは、「快の情動体験」が伴っているから。

情動・感情は、操作しようとして動くものではない本能です。
そして、他人と比較することのできない個人的な体験です。

人が「美しい」と対象を認知する時、「快の情動体験」が起こる。
つまり、その人に心地よい快をもたらす表現が、その人にとっての美しさと言えます。


2. 快の情動は、幅広い。

では美しさを感じた時に、脳が活動する「快」ってどんなものがあるでしょう?

アクティブなものだと、楽しい、ワクワク、ドキドキなど。
気分を整えてくれるものだと、心地いい、気分がいい、爽快感など。
スージングをもたらすものだと、和む、落ち着く、安堵感など。

これが脳活動の報酬系であるということは、
ヒトが「美しい」と感じる時、脳にとってのご褒美になっているのですね。

快の情動と連携した、美の認知があればあるほど脳は喜ぶし、
もっと美をくださーい!となるってことだと理解していますが、合っているかな。(脳機能ご専門の方、ご教示くださいませ)


3. 「私は、美しい。」という自己肯定

上で引用した文章は、美術作品の鑑賞時についてのものですが、
これは何にだって当てはめられると思う。

好きな人、好きな音楽、好きな料理、好きな景色、好きな色、好きなデザイン…


そして、もちろん、自分が創作している時にも。

表現したアートやそのプロセスに対して、
同様の脳機能の反応があると考えられる。

アートセラピーは、美術作品を作る時間ではないので、
技術的に「うまく作ろう」とか、対外的に評価されるような「美しいものを表現しよう」という、評価判断なしに表現することを推奨しています。


とあるクライエントさんのお話。


日本画材を用いた表現プロセスにとても没頭して、
終わってみれば、「これ、自分が表現したの?美しい…」と驚きの感想を語ったことがありました。

そして、今までにない集中力で、
その後、数年にわたって、日本画材を使ってアートを継続されたのです。


この事例を考察してみると、

<STEP1>
表現をして、振り返ってみると自分でも「美しい」と思うものが生まれていた。
<STEP2>
「美しい」と感じた時、快の情動体験の脳内反応があった。
<STEP3>
快の情動体験が、報酬系のため、さらに「美しい」と感じたい欲求が発生。
<STEP4>
次の創作意欲につながっていった。

…というフローが、脳内と行動レベルにおいて引き起こされていた可能性があります。


なお、アートセラピー(芸術療法)にも、いくつかの流派がありますが、
ジャン=ピエール・クラインは、以下のように定義しています。

「語ることのできないものを形象として表現するために、芸術療法は自我への直接的探求と表現できないものとのあいだに距離を設ける。」
「自我を扱いながら、それでいて自我という対象を直接的に操作する危険がより少ないことは一般的に知られている。」
(注2)

つまり、アートセラピーでは、
本人が言語化できないものや、意識出来ていない事柄も含めて扱うことが可能で、
さらに、その表現された内容は自我、つまり自分自身を反映していると捉えます。

大きな括りで言えば「表現=自分自身」とも変換できるのです。


ご紹介した事例のように、

誰かに見せたり評価を得るためではなく、
自分の思いのまま表現したアートに対する「美しい」という感情は、

ありのままの自分自身を「美しい」と感じた感情でもあるのです。

「私は、美しい。」

これ以上ない
自分自身に対しての肯定感と言えるのではないでしょうか。


4. 日本的心性と自己肯定の相性

今、自分を好きになる方法、とか、自己肯定感をアップする方法、とかのコンテンツが非常に人気ですね。

それは「自分」という自我を中心にした、内面的取り組みになります。

以前の記事でも書いたのですが、「個」の意識が希薄な日本的文化意識の中では、
そもそもの「自分」という概念から模索を始めることになり、ことさら難しいプロセスなのかもしれません。

日本を代表する心理学者である河合隼雄氏は、
アメリカやスイスで研究に従事してきた経験を踏まえて「欧米人と日本人の心の在り方の差」を以下のように述べています。

欧米人が「個」として確立された自我を持つのに対して、
日本人の自我−それは西洋流に言えば「自我」とも呼べないだろう−は、
常に自他との相互的関連のなかに存在し、「個」として確立されたものではない
(注3)

そして日本的な心の在り方として、このように説明しています。

「心身一如などという表現があるように、東洋においては、心身を分離しない全体的な生き方が喜ばれるところがある。」(注3)
「心と体、意識と無意識、自と他、文化と自然などが分割されず」
「全体性を把握することに優れている」のが「日本的母性社会」
(注3)

「ほかとは違う自分」という分離によって自己を捉えるのではなく、

「全体の中の自分」という俯瞰的な全体性でもって自己を捉える方が、
日本的な心性としては得意なのかもしれません。

そう考えると、「私は、美しい。」と感じるような自己肯定感を育てるには、

「自分」というテーマをダイレクトに扱うよりも、アートセラピーのように、あるいは茶道や武道のように、何かのフィルターを通して取り組む方が、日本的心性にフィットしていてやりやすいかも知れない、と思います。

また別noteで書きますが、日本には西欧から輸入されるまでは心理学が無かったと言われています。

これは心理学という、自分の心を真正面からアレコレする学問の代わりに、様々な「〜道」という精神鍛錬のための東洋芸道が発展したこととも一致するなぁ、と私は思った次第です。

ということは!
アートセラピーと日本の心性は、実はめっちゃ相性が良くて、

「美しさ」の感受による自己肯定、というテーマが
すごくすごく発展の可能性があるんではないか!と、いう着地点にたどり着きました。


さて、今日の【極私的考察】はこれにて失礼致します。

今から町内会の地蔵盆手伝いなので、ちょっとまとめがバタバタしてしまいました。そんな感じでやっている私主観の考察でした。お粗末さまでした。

(すごく大切なこと→
事例は、研究目的での使用をクライエントさん本人に承諾いただいているため紹介しています。セラピストには守秘義務があります。セッションでの出来事を、クライエントさんに無断で外部へ出すことはありません。)

<引用文献>

(注1)川畑秀明(2011). 美の認知, 認知神経科学会, 認知神経科学, 13(1), 84-88, 2011-05

(注2)ジャン=ピエール・クライン著、阿部惠一郎,高江洲義英訳 (2004)芸術療法入門,白水社

(注3)河合隼雄(1995). 日本人とアイデンティティ−心理療法家の着想−, 講談社


ありがとうございます。サポートは、日本画の心理的効果の研究に使わせていただきます。自然物由来の日本画材と、精神道の性質を備える日本画法。これらが融合した日本画はアートセラピーとなり得る、と言う仮説検証の為の研究です(まじめ)。