【讃美歌】また会う日まで(読書感想文)ー2
【讃美歌】また会う日まで(読書感想文)ー2
秋吉輝雄は幼い頃、両親が北海道開拓に志願し移り住んだものの、開墾はうまくゆかず九州へ帰ることに。
「父はモーセではなく、困難に耐えながらも信仰を失わないヨブだった」
天体に憧れのあった秋吉輝雄は、そこから派生して天体観測により海図を作成していた海軍水路部を目指し、20世紀初頭に江田島海軍兵学校に入学した。
懇意の聖公会・牛島牧師からの後押しもあったものの、
軍人はモーセの第六戒・汝、殺す勿れを侵すことを、念頭に置くよう言われる。
江田島での授業ー問い
「ある人が、南に三里、東に三里、北に三里歩いたところ、同じところに戻ってきた。この人はどこにいたか?」
答え「北極点」
平面三角法から入り、後に球面三角法を学ぶという。
知識は甘露だと興奮する輝雄だったが、艦砲射撃や銃器の技能訓練では、人を殺す技術だという実感が沸き、懊悩があった。
敵艦を沈めるために、アンダーシュートといって、まず仰角下目に撃ち、水煙を上げる。この水煙で敵艦との距離を正確に計り、撃つ。これを挟叉攻撃という。
秋吉輝雄が海軍兵学校時代のエピソードは、いろんな逸話が載っていて面白かったです。
たとえば「きりしとほろ上人伝」の日本の編集者・芥川龍之介は、横須賀海軍兵学校の講師だったことがあり、
他の講師とは違う理屈があって、それは
「勝ったことばかり勉強しすぎ」
それで、負け戦の講釈が多かったために「敗戦教官」という渾名が付いた、とか。
制動装置の無い戦艦は、接岸・停泊に失敗すると、座礁・沈没の原因になる。
迷子の他に「座礁」は艦が最も憂慮するものの一つで、二艦一チームでの行動が基本。
補給艦は索投擲銃をもう一艦に渡して、デリケートなウィンチ操作で物資輸送したり、
ブイに書類を付けて渡したり、モールス信号など、考え得る限りの相補協力、コミュニケーション技術を学ぶのだそうです。
験担ぎもする。
練習艦の上で、教官が生徒から醤油樽にお布施を集めて、奉納 金刀比羅宮 江田島海軍兵学校一堂と書き、海に流す。
それを拾った漁師などが、宮に届けてくれる。
このあと、10年20年かけて、日本は和平条約派と英米に対抗するかのような国の威信を重んじる派閥に分かれて、
五一五事件、ニニ六事件が起こり、雪だまが斜面を転がり落ちるかのごとく状況が悪化していきます。
それを戦前戦後と分けてしまうと、身も蓋もない。
トップダウンで男尊女卑で体罰当たり前のこの時代にも、この時代の良いもの…というか、情緒が、あったのだなと思います。
今のこの時代でも、自分のためであることを誤魔化さず、人を想い知恵と工夫で乗り越えていこうという気概を、持っていきたいものです。
罪を憎んで人を憎まず…が、分かってきたような気がする。