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一年二歳計算による春秋暦年表の二通りの解釈について・日巫女の連続性の考察

A. 日本書紀のみ
https://docs.google.com/.../2PACX.../pubhtml

B. 日本書紀+古事記
https://docs.google.com/.../2PACX.../pubhtml

一年二歳計算は日本書紀の即位年だけの計算と、日本書紀と古事記の崩御年を合わせた計算と二通りあるのではないかなと考察しています。

A.だと伊勢の神宮の設立である垂仁天皇二十六年はAD237年となります。
倭姫命が斎宮です。
B.だとAD237年は崇神天皇二十六年となり、豊鍬入姫命が斎宮です。

六年 … 以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。

日本書紀 崇神天皇記

崇神天皇6年(年表B.ではAD227.5年)に豐鍬入姬命は倭笠縫邑にて天照大神を祀ります。
垂仁天皇6年(年表B.ではAD247年)に魏志倭人伝において卑弥呼が亡くなります。

B.では神武天皇の即位が「辛酉」となります。

日巫女・斎王の連続性の考察

60年周期ではなく19年周期を考慮

卑弥呼関連で、倭姫命の日本書紀の記述と、臺與が数え13歳で卑弥呼の後を継いだことをもとに、日の巫女の継承は以下の記述を想定しました。
前例を踏襲すること、違っていても大体の世代交代を予測できることを考慮しました。

・齢数え13歳で継承(不定)
・太陽と月の位置が一致する年を基準にしている可能性から、メトン周期もしくはカリポス周期の19年の倍数による年数(19歳、38歳、57歳、76歳)を日巫女の在任期間とする
・伊勢の神宮の設立をAD257年(年表AではAD237.5年)と仮定する。
すると以下のようになります。

 (AD150誕:AD162巫)夜麻登登母母曾毘売命
⇒(AD207誕:AD219巫:AD227.5巫記)豊鍬入姫命※箸墓古墳AD240~AD260
⇒(AD247巫記)垂仁天皇(男性の斎王※魏志倭人伝)
⇒(AD245誕:AD257巫記)倭姫命
⇒(AD282誕:AD294巫:AD304巫記)生五百野
⇒(AD339誕:AD351巫:AD362巫記)伊奢沙和気大神(伊和志真)

年表B.により、崇神天皇と垂仁天皇が重複している期間があります。それはAD245年からAD258.5年ですが、この期間は垂仁天皇は斎王として在任していたのではないかと推測します。

年表B.によりAD304年に五百野皇女が斎王となっています。

廿年春二月辛巳朔甲申、遣五百野皇女、令祭天照大神。

日本書紀 景行天皇記

古事記で品陀和気命(応神天皇)と名前を交換する伊奢沙和気大神(現在の氣比神社の御祭神)の記述は、斎王として迎え入れたこと、斎王の資格を品陀和気命(応神天皇)が持つことになったことを表しているのではないかと思いました。
もしかしたら開化天皇の血筋関係を暗示しているかもしれません。

追記:
日本書紀・日本語訳「第九巻:神功皇后」より、仲哀天皇九年に「小山田邑おやまだのむら」に斎宮を造らせ神功皇后が巫女となられています。年表B.のAD362年にあたります。

九年春二月、仲哀天皇が筑紫つくしの香椎宮かしいのみやで亡くなられた。
皇后は天皇が神のお告げに従わなかったことで、早く亡くなられたことを傷んで思われるのに、祟られる神を知って、財宝のある国を求めようとされた。
群臣くんしんと百寮もものつかさに命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎宮いわいのみやを小山田邑おやまだのむらに造らせられた。

三月一日、皇后は吉日を選んで斎宮いわいのみやに入り、自ら神主かんぬしとなられた。
武内宿禰タケノウチノスクネに命じて琴を弾かせ、中臣なかおみである烏賊津使主イカツノオミを呼び、審神者さにわ(神託を聞いてその意味を解釈する人)とされた。
幣帛へいはくを数多く積んで、琴の頭部と尾部に置き、祈り求めた。
「先の日に天皇に教えられたのはどこの神でしよう。どうかその御名を知りたいのです」
と申された。

https://kodainippon.com/2019/08/05/日本書紀・日本語訳「第九巻:神功皇后」/


古墳の場所について

夜麻登登母母曾毘売命
※古墳の場所は箸墓古墳を除けば以下の候補があります。
・古事記の「氷河之前(加古川の岬)に清浄な壺を祀る」より、針間(播磨)、加古川あたりの古墳
・孝霊天皇の時代は九州に拠点という説より平原古墳など
・同様に、地名、地形が三輪山周辺と類似することから、筑前の大己貴神社(於保奈牟智神社)の周辺の古墳

豊鍬入姫命
箸墓古墳AD240~AD260

景行天皇記における記述

年表B.を参考にすると、景行天皇はAD295年に数え43歳で即位しています。
日本武尊の以下の記述「天皇踐祚卌三年焉」はそのことを指すのではないでしょうか。

時、日本武尊化白鳥、從陵出之、指倭國而飛之。群臣等、因以、開其棺櫬而視之、明衣空留而屍骨無之。於是、遺使者追尋白鳥、則停於倭琴彈原、仍於其處造陵焉。白鳥更飛至河內、留舊市邑、亦其處作陵。故、時人號是三陵、曰白鳥陵。然遂高翔上天、徒葬衣冠、因欲錄功名卽定武部也。是歲也、天皇踐祚卌三年焉。

日本書紀 景行天皇記


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