![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164051636/rectangle_large_type_2_afd594e371fdbcce4e5919a409a8cfc5.png?width=1200)
【短編】『コンピュータが見る悪夢』(中編「密売人」②)
プロローグはこちら
コンピュータが見る悪夢
(中編「密売人」②)
署の印刷機が壊れた。
「おいおい、勘弁してくれ」
上司のマックスは火傷のあとある頬を小刻みに揺らしながら、その醜い顔で唸っていた。
「フィル・ウォーカー」
「――」
「フィル・ウォーカーはいないのか?」
「――」
フィルは支給されたパソコンに釘付けになっていた。次から次へと自分の元に事務作業が舞い込んだ。しかしそのパソコンと睨めっこをする時間はなぜかフィルを安心させた。車で街を巡回して市民に違反切符を渡したり、殺人予測現場を行き来したりするより性に合っていた。
「おい! フィル」
三度目にしてようやく、上司の声はフィルの鼓膜を通過した。
「はい。なんでしょうか?」
「遅いぞ、なにやってんだ」
「すみません」
上司の腹は、今にも第四ボタンが弾き飛びそうなほどに膨れ上がっていた。第五ボタンはやや下に垂れたベルトの下に隠れていた。
「おい、これを直しておけ」
「これというのは?」
「見りゃわかるだろ。印刷機だ」
「あ、はい」
「おまえ昨日この印刷機を使ったか?」
「たしか、使ったかと――」
「じゃあ、お前がやったってことで」
「え、あ――」
去り際の沈んだ上司の顔に一瞬笑みが浮かんだのが見えた。昨日印刷機を使ったとは言っても、支給されたパソコンから二、三部ゴミ分別用の張り紙を印刷しただけだった。自分の後に何人も印刷機を使ったのを見ていた。画面には「メンテナンスが必要です。ドラムユニットを交換してください」と表示されていた。ドラムユニットというのが何を指しているのかわからなかった。しばらく機械の下の方にあるいくつもの引き出しを引っ張ったり戻したりと同じ動作をしていると、突然頭上から誰かの声がした。
「あんたはなんで自分の意見を言わないんだ?」
見ない顔の男が立っていた。フィルはそれが誰だろうともうどうでもよかった。上司に振られたわけのわからぬ仕事に鬱々としていたのだ。
「自分の意見か。そんなことしたってこのクソみたいな状況が変わるわけじゃあるまいし」
「そうかもしれないが、言われっぱなしでいいのか? 嫌にならないのか?」
「まあ、たまには嫌になることはあるかもな――」
「なら自分が言いたいことを言えばいいじゃないか。じゃなきゃあいつはいつになってもおまえを対等に見てくれないぞ?」
男の言っていることは正しかった。フィルは上司にへりくだることで、自分への期待値をあえて下げようとしていた。期待されるほど面倒なことはないのだ。しかし自分の言いたいことを言わない限り、上司は自分を低く品定めし、永遠と叱責は続いていく。
フィルは頭を上げた。男の顔をよく見ると、自分と同じ歳ぐらいの若者だった。バッジはまだ新品のごとく輝きを放っている。最近警官になったばかりのようだ。名前すら知らないこの男が、なぜわざわざ自分に口出ししてくるのか理解できなかった。
「君は、対等に見られたいのか?」
「そりゃ見られたいさ」
「なぜ?」
「じゃなきゃ昇進できないからね」
昇進――。この仕事に昇進制度があることは知っていた。しかし自分の身に置き換えて考えるのは初めてだった。ドラッグディーラーに昇進はない。受け取る金の量はドラッグの在庫が減る量に比例する。この溌剌とした男と自分の違いは、この意識の差なのだろうか。もしくは、単に男の自我が強いだけだろうか。男は自分とは違う環境で生まれ育った。そこには越えられない大きな壁があるような気がした。
フィルは再び膝を曲げて機械の方を見つめた。
「そうだな。君の言う通りかもしれない。だがおれは昇進には興味がないんだ。そもそも、警察にすら――」
自分自身に問いかけているのではないかと思われるほど小さな声で発した。男はフィルが折れたことを見透かしたのか、鼻で笑って背を向けた。
そもそも対等に見られるとはどういうことだろうか。相手に自分の尊厳を尊重されていることを指すのか。あるいは、相手と同じ地位の存在として認識されていることなのか。ステージの上でチンパンジーと芸を繰り広げるサスペンダーを着た男はどうだろうか。彼はチンパンジーのことを対等に見ているだろうか。フィルはため息をつく余力さえなかった。
印刷機の業者の電話番号を携帯端末に打ち込むと、すぐに女性の声がした。温かみのない声だった。
〈こちらは、ペイプテック修理代行会社です。修理をお申し込みされる会社名と品番をどうぞ〉
「サンフランシスコ警察。品番は、E7819-013」
〈かしこまりました。少々お待ちください〉
しばらく簡易的なビート音が流れると、再び女性の声がした。
〈会社名と品番の確認が取れました。修理をご予約されるお日にちをどうぞ〉
「一番早く実施できる時間帯で」
〈かしこまりました。確認しますので少々お待ちください〉
同じビート音が再生された。今にもメロディが流れ出しそうな雰囲気を醸し出しながら、そのビートは一定間隔で打ち続けられた。
〈お待たせしました。明日の午後四時に空きがございます。そちらでよろしでしょうか?〉
「明日午後四時で頼む」
〈かしこましました。ご担当者のお名前をお願いします〉
「フィル・ウォーカーだ」
〈ありがとうございます。それでは明日の午後四時にサンフランシスコ警察署まで修理担当が参ります。どうぞよろしくお願いします〉
フィルは返事することなく電話を切った。付箋を取り出して「明日の午後四時、修理業者が来る」と書いて印刷機の上に貼った。
その日の夜は、外を走る救急車のサイレン音も、若者たちがハイになって叫ぶ声も、隣の部屋から響くベッドの軋む音も何も耳に入ってこなかった。フィルは考え事をしていた。自分はなぜ警察官をしているのだろうか。職場の同僚からは気概を感じられるが、自分にはそんなものはない。
なくて当然だ。
自分は叔父から半ば強要されて警察官になったのだ。警察官になることで自堕落な生活を辞めにし、自己統制のできる厳しい環境に身を置けと。だが、フィルには警察官としての素質はなかった。いいや。警察官になるために素質などいらなかった。そもそもフィルには大事なものが欠けていた。
突然無線から男の声が響いた。
「こちらサンフランシスコ警察。テンダーロインエリア、オファレル通りで殺人予測が一件。至急応援を求める。こちらサンフランシスコ警察――」
オファレル通りはフィルの住む建物のある通りだった。無線からの声はフィルの耳元へは届かなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
▶︎続きの【中編「密売人」③】はこちら