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「在る」という視点の重要性〜実在と否実在〜

こんにちは。
今日は「在る」という視点が私に多大な影響を与えたことを書いてみようと思う。真理を探究する上で、また高次元意識へと進む上でこの視点は切っても切れないものであると言える。

昨年ある本を知り合いから薦められ、読んだことがきっかけで私の中での変化が一氣に進むことになった。
それが『それは在る』というヘルメス・J・シャンブさんが著書の本だった。

この本で書かれている内容は、私という存在、客体である他者含めて、この世界の一切のものを完全否定するという視点である。この世のすべてを次元が変わろうと、それは幻影で実在していないと断定すること。
それと同時に私は真我であり、意識そのものであり完璧な存在なのだということ。
自我というものを自分から引き離して、「在る」という真我の視点に立ってこの世界を見る時、起こることはすべて真我で在る私には一切の影響がないということである。

この真我の視点という内容は、他にも、ラマナ・マハルシさんや、「ニュー・アース」の著者エックハルト・トールさんなども書いており、その系統の本を貪るように読んで腹に落としていった。

私にとっては昨年のタイミングでこのような本に出会うことがベストなタイミングだったように思う。肉体をはじめ、アイデンティティや思想、人格、嗜好、家族、思考、イメージ、過去の出来事に至るまであらゆる私と自己同一化しているものから分離させていく作業が始まった。私というものを固定していたものが、音を立てて崩れ始めた。
私という存在を捉えるためにはこのような自己同一化しているものから解放させていき、0に戻していく必要があったのだ。

私というものが揺らいで、不確かな存在になっていく。
そして、私という行為者から私という意識へと次元を変化させていくこと。
行為者を眺めている自分がいて、それを見ている自分がいるといったように、意識を拡張させていくような作業だった。

私は本を読んでいる最中に文字が浮いているような感覚がしたり、起きているのにいきなり体から意識が自分の頭の上に移るような体験をした。
視点が後頭部の斜め上から自分んを眺めているような感覚だった。

私という行為者が食べたり、話したり、動いているのを、意識が俯瞰して見ているような感覚で、私という存在が自分とは関係ないような分離した感覚になっていった。
はじめのうちはそういった分離した感覚があっても、何か嫌なことがあったり、夢中になったりしていると、行為者である自分と意識が一緒になって、いわゆる眠っている状態になる。思考がグルグルして、その内容に呑まれているような時は不安や恐怖などが襲ってきて、とても自分を俯瞰してみることができないことも多かった。

何かのきっかけで、また行為者である自分を俯瞰して見ている状態に戻るといった感じで、分離と自己同一化を繰り返していたが、意識的でいる時間が増えてくると、思考に振り回される時間が減ってきた。
覚醒をする上でこのような経緯を辿っている人は多いのではないかと思う。

この「在る」の状態は「中今」にいることと同義ではないかと思う。
今に生きている時、そこに過去も未来もなく、でも今に過去も未来もすべて含まれていることがわかってくる。

私という行為者が否実在であり、この世界はすべて幻想であり、実在しているのは真我である私だけだという捉え方。この世界のすべてを一旦全否定したところに大きな視点の変化が生まれるのではないかと思う。

こういった素晴らしい本が世に出ていることに感謝し、紹介させていただくこととする。

いつもありがとうございます。





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