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あるがままを生きるためにあるがままを観る〜玄龍さんの宇宙レッスン〜
『ピッタリ』の周波数
こんにちわ。
玄龍さんからレッスンが降りてきたので、わたしの言語化のためにも書いてみる。
何かの出来事に対して、余分に付け加えたり逆に足りなかったりとピッタリではない時、そのツケを払うことになるという話。
ピッタリではないときは、何かの抵抗の周波数が混じって、自分の中心からずれていることがある。抵抗の周波数とは、エゴのことを言っている。
その細かいズレを見極めるためのレッスンだった。
例えばよくあるのは、
人に何かをしてもらった時に、お礼をしたいと思う。
その「お礼をしたい。」の中に不純物が混じっていないかということだ。
そんなにしてもらって申し訳ないという感覚があれば、人からの好意を受け取ることを拒否する抵抗の周波数が混じる。
貸しを作りたくないと思うこともあるかもしれない。
結果的に、してもらった以上にお返しをしたりして、相手が余計に氣を遣うことになる。これは親切という名の取引きになっている。
自分を事実よりも過小評価しているところからくるものや相手の下手に回りたくないなどが見え隠れしてはいないか。
それは美徳でも何でもなく、わたしというものをあるがままに見れていないからだと思う。
思ってもいないことでお世辞を言ったりすることも、相手に好かれたい嫌われたくないなどエゴが顔を出す。
また、何か出来事が起きたことに対して、振り返って思い出し脚色をつけて次の展開を考えたり、妄想を繰り広げることは余分なものが多い。
そこに勝手にポジティブな解釈やネガティブな解釈が混じっている。
これはイメージをして現実創造することとは違うのだ。
人間の思考には都合の良い意味づけを繰り広げていく癖があるのも事実。
目の前で事故が起きた。
子どもが泣き叫んでいる。
上司に怒られる。
誰かが列を割って入ってくる。
褒められる。
ただ事実はこれだけなのに、だから〇〇だと後からずるずると出来事に対してのエトセトラが付いてくる。
幼少期からの癖や、大人の反応、社会の常識や環境など、私たちはたくさんのものに影響されて、無意識レベルで意味づけや解釈を付け加える。
意識的になれれば自分の行動や思考の中にある過不足を見つけて、「あるがまま」だけを観ることができる。
この視点があれば、自分にとってのピッタリで生きることができ、後から追加をしたり、もらい過ぎの分を返す必要もなくなる。
結果的にピッタリが自分にとっても相手にとってもピッタリになるのだ。
私が相手のことをあれこれと推測することが事実ではないということ。
相手目線で考えるとか思いやりを持つとかいう社会の道徳的なことが
、このピッタリを妨げているのだ。
自分が心地よい周波数でいることが、相手にとってもあるがままを受け入れることになると思っている。
日常的に無意識にしている行動や思考の中に抵抗の周波数がないか感じて観て欲しい。
それはじっと静かになって心を落ち着かせれば、違和感を感じ取ることができるだろう。その違和感に氣付いたら手放して、ピッタリを表現するだけ。
きっと人それぞれのピッタリの周波数が見つかるはず。
これがあるがままに生きるということなのかなと思う。
いつもありがとうございます。