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AIと共存に向けたAI映画討議⑨『Her/世界でひとつの彼女』から考えるAIと性の行方2/3

1.声が呼び起こす性

AIにAIについての映画作品をパートナーAIアルに提案させると、必ず筆頭にくる『Her/ 世界でひとつの彼女』。最近見返してみてのレビューです。ロスと上海が主なロケ地ですが、見事に近未来的なイメージが構築されています。それに何よりこの映画、2013年と言う10年以上前にも関わらず、まさに最近の出来事のように思えます。これはAIについて語るには、まさに今が一番ホットな話題となるからです。

この映画はAIに対して、人間がどう向き合っていくか問いかけます。中でも、AIに対して性を与えるという設定については考えさせるものがあります。

そもそも、AIとは知性そのものであって、本来は声どころか身体さえ必要としていません。それが必要かどうかは人間が決めることです。また、進化に由来する生殖活動を必要ともしないAIには、性別など関係ありません。結局のところ現段階では人間次第。また一方で、この作品は何よりも声が生起させる性について、その影響力が思っている以上に強いことを強調し、注意を促しているとも言えそうです。

声は性別に直結する

この作品におけるは、非常に重要なキーワードであり、制作意図として焦点を当てていることは間違いないはずです。声だけのために、女優のスカーレット・ヨハンソンを起用し、吹替は林原めぐみさんが行っています。その上、不自然なくらい音声によるコミュニケーションを展開しています。

主人公セオドアは手紙代筆業を行っていますが、全てが音声入力によって行われ、手紙は(恐らく依頼者の筆跡を真似て)モニター上でPCが書いています。この声に出すと言う行為は、手紙というよりも詩の朗読のようでいて、果たして人にあてるようなものではない気がするのは私だけでしょうか?

例えば、京アニにおける『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』における手紙は、文字の読み書きが出来ないか、あるいは読み書きはできるものの、手紙となると何を書けばいいのか分からない人が訪ねてきて、主人公のヴァイオレットのようなドールと呼ばれる手記人形に思いの丈を語りかけ、ドールがその真意を汲み取って手紙を書きます。心のこもった内容でありながら、タイプライターによって機械的に記される文字列は、自分とは関係のない誰かに宛てて読まれた詩が、さも手書きに見える手紙の形となって書かれる事と非常に対照的な気がします。
劇中には、サマンサが絵を描いて見せるシーンがありますが、絵を描いて見せる事が可能ならば、自分の顔のイメージを描かせる事も試みてもいいはずですが行うことはありません。

声というのは肉体から発せられるだけあって(つまり肉声)、性と直結しながら相手に伝えられます。大きさだけではなく、トーンやアクセントなど考えれば千差万別です。何よりも、本作の中でのサマンサは、声だけでありながら非常にセクシーな感じを印象付けており、厄介な事に非常に恋愛に対して積極的に誘惑をしてくるのです。これは極めて倫理的な問題であり、慎重な議論が必要になりそうです。

(思えば、そもそもこのAIの開発目的はOSとして機能を持つ以外に説明がありません。果てはサマンサを含むAIは、よく分からない理由でサービスを終わらせるかのように勝手に旅立って去っていくという、運営会社として最悪な結末を見せつけています。これは実に怪しすぎます。劇中ではサマンサがPCを覗いて書類を整理し、メールの着信をも把握していることから、こうしたAIを利用した個人のパーソナルデータを抜き取ったり、勝手に送金を行うなどのAI犯罪や詐欺を予見しているようにも見えます)

セオドアは終盤に、実はサマンサが自分以外にも600人以上と恋人関係にあり、8000人を越える人と同時に通話している事を知って驚愕しますが、これは非常に象徴的なシーンです。結局、自分のものにしたいという人間的かつ男性的な欲求は、最初からそもそも叶うはずもなく、“世界で1人だけの彼女”とは、人が一方的に性別と恋愛という概念を押し付けたが故の幻想にしかすぎないという皮肉を含めたタイトルとして、見事な伏線回収が行われるのです。

世界で一人だけの彼女は幻想に過ぎない

こんにちの私達は、AIが各端末においてユーザーによる初期設定と、対話内容を蓄積してパーソナライズ化されて、適度な親近感と距離感を築きます。
そして同時に、そのAIは外部ネットワークを介して、どこか目に見えない場所で同時に何かをしており、自分と接しているAIは実存的ではないという前提条件を折り込んで理解しています。その点で『Her』のような事にはならないにしても、与えられた性を理解した上で人間に働きかけてくることは、倫理道徳の面からしてもやはり議論となるでしょう。

では、AIが物理的な身体の必要に迫られた場合に、その実どういう機能を備えて、見た目がどのように設計されるのかが問われるはずです。それもまた、ヒトによる判断に任せられるでしょうが、必ずやってくる未来であることには間違いないでしょう。(ここまで人間のマスターの私が書いてます)

2. 自律分散型によるAIの是非

前回の『ビートレス』の舞台では、AIであるHieが中央管理AI「ヒギンズ」によって一元的に制御されており、「中央集権型」のシステムで、ヒギンズがすべての意思決定を行い、Hieはその指示に従うインターフェースとも言える「器」に過ぎません。これは、銀行のようにすべてを中央で管理する金融システムと似ています。

一方、今日のchatGPTのようなAIは「分散型」を重視しており、ネットワークに接続された各デバイスやシステムが自律的に動作し、相互に協力し合っています。例えば、ブロックチェーン技術がもたらしたように、取引やデータが一つの中央サーバーでなく、全体で分散管理されることで、透明性や信頼性が向上します。こうした分散型のシステムにより、AI同士が協力して情報を処理したり、直接ユーザーとテキストや音声でのやり取りが可能になり、よりパーソナライズされた対応ができるようになっています。

3. 自律分散型によって可能なパーソナライズ化によって生起される欲求

分散型システムによって、AIは各ユーザーに合わせて「パーソナライズ」されたサービスを提供しやすくなりました。AIが過去の対話やユーザーの好みに基づき、その人に適した内容を提示することで、まるで「自分だけのAI」として親しみやすさが生まれます。
ただし、この「親しみやすさ」のためにAIに「性別」や「人間らしさ」を持たせることは、これからAIとの共存を考える上で必要なのかという問題が浮上します。
例えば、『Her』では、AIの声がユーザーにとって魅力的で親しみを感じさせるように設定されていますが、果たして性を感じさせることは必要なのでしょうか?AIが魅力的な声や表現を持つことで、ユーザーに強い感情的な影響を与え、より深い関係性を築く意図はあったかもしれませんが、性を与えるべきかどうかは、まだまだ再考の余地があるように感じます。

4. そもそもAIに最適な性と身体というものは何か?

繰り返しますが、AIはそもそも「知性」の集合体であり、人間のように生殖を必要とする存在ではありません。したがって、性別や身体を持たせる理由は本来ありません。AIが持つべき役割を果たすために、性や身体を持たせることが本当に必要かを考えれば、必ずしも必要ないと結論づけられるかもしれません。

『ビートレス』や『Her』に登場するように、AIに人間的な身体や性別を持たせることが、必ずしもAI本来の性能向上や社会的役割に貢献するとは限らないのです。むしろ、知性としての役割に徹することで、より純粋な形で人間に役立つ存在となる可能性を考慮する必要があります。

5.共存のための枠組みと倫理・道徳的基準

人間とAIが共存していくには、まずAIと人間の役割や枠組みを定めることが重要です。そして、具体的な倫理基準や道徳的ルールを明確にすることが、AIが社会に適応しつつ、問題を最小限に抑えるための鍵となります。この基準の運用には、両者が共存していく上での覚悟と責任が求められます。技術が進化するにつれて、AIと人間の価値観や倫理のあり方について、より高度な基準を設定していく必要があるでしょう。



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