Dear 成瀬あかり
拝啓 成瀬あかり様
拝啓 成瀬あかり様
西武大津店がなくなってしまってからのその後の滋賀はいかがでしょうか。
西武に捧げる夏を過ごしたあなたの住む街にも冬には雪が舞うのでしょうか。
それともあなたはすでに古都で黒髪の乙女のごとく爽やかに、鴨川の冷涼さにその健脚を浸しながら学究を謳歌しているのでしょうか。
はたまた何かのさだめで、東の赤い門の元に煌めいていますか。
それともその真っ直ぐな眼差しで今も琵琶の深い青さを見つめているのでしょうか。
いずれにせよ、あなたの持つ計り知れないエネルギーはどこにいても他者にその熱を伝えていることでしょう。
どうか200歳まで健やかに。
これはもう令和のヒロインじゃないでしょうか
読み終えたあとに、作家へのファンレターではなくて、思わずヒロインへこんな手紙をしたためたくなるような物語だった。
ヒロインという言葉でこの物語の主人公を表現すること自体が正確さを多分に欠くのだが、なぜだか無性に彼女への愛と尊敬を込めて令和のヒロインという呼称で呼びたくなってしまう。
令和に成瀬あかりというニューヒロイン(というより底知れずにヒロイックでパワフルな女性)を持てたことは幸運だといえよう。
コロナ禍に中学期を過ごしたこのZ世代ど真ん中のヒロインは、周りの空気を読みながらも同時に個性を発揮することも求められている疲弊した現代人にとって、おそらくこれまでのどんなキャラクターよりも眩しく映っている。
「成瀬は天下を取りにいく」の主人公である成瀬あかりは、これまでのどんな物語にも登場しなかった女性キャラクターだ。
その魅力は彼女の愚直さと誠実さとその上に成り立っている秀才さにある。
なにより成瀬は周りの目を気にせず、真っ直ぐに自分の物差しで自分が決めたこと、求めることに猛進していく。この自己への盲信さは、多様な文脈を踏まえて誰かにとっての正解よりも誰にとっても間違いでないことが求められる(少なくともそう感じさせられる)時代の風潮と、それによってもたらされる閉塞感や疲弊感に包まれている現代人にとって羨望の的となるほど爽快だ。
成瀬は壮大で、特に周りから理解されないような独特な場所に旗を立てようとする。そしてそれを口に出し、いざ有言実行と行動を起こしていく。
周りに怪訝な顔をされようとも、どこ吹く風と微塵も、カケラも気にしない。
そして時には失敗し、途中で挫折し、時には目標には(目標が高すぎて)遥かに及ばないけれどそこそこいいところまでいったりする。
ほんの些細な興味から始まって、それはもう達人の域ではないかというレベルまでスキルアップしていくものもある。
ただ、ここで大事なことは成瀬は決してなんでもこざれの天才ではないということだ。
周りの目を気にして本気で取り組まない人たち
成瀬は決して天才じゃない。ただ、凡人が些細な興味から異常なまでののめり込み方で、自分の持つ様々なリソースや興味を真剣に一つの物事に集中させた結果、異様なほどの上達を見せたり、あまりにも壮大な目標設定に行き着いているだけなのだ。
こういうとそこまで一局集中できること自体が凡人とは違うと思われるかもしれないが、成瀬のストラテジー(そう呼べるほどのものかも彼女自身が意識してやっているかも全く定かではないが)は意外とシンプルだ。
それは、繰り返しになるがまず第一に、人の目を気にしないこと。
そして、物事の優先順位を社会的な常識の外で自分の基準で組み替えてしまうことだ。
この成瀬メソッドが極めてわかりやすく表れている例が成瀬が高校入学と同時に開始した「髪の伸びる速さを測る実験」だ。
成瀬は髪の伸びる速さが理論値と合致するかを確かめるため、高校の入学に合わせて頭を丸めて坊主にし、華の高校3年間一切髪を切らないことで身を挺して自分の求める真実を知ろうとする。しかも、より正確性を求めて、髪の毛が直進的に伸びることの影響を反映するため、毛先のカットだけでなく、毛量を整えることさえしないのだ。
確かにここまで鬼気迫る真剣さで何かに取り組めること自体ある種の才能ではあるかもしれないが、高校入学後の自己紹介の場面で達者なけん玉捌きを披露するシーンや幼なじみの島崎とコンビを組んで芸人としてM-1に出場する場面などでは、凡人でもちょっとやってみてもいいかなということ(でも実際はほとんどの人が最初の一歩すら踏み出さないこと)にも成瀬は千本ノックのごとく取り組んでいる。つまり究極の多動力厨とも言えるのだが・・・。
こうして成瀬は凡人でも真剣に取り組めばけん玉の達人にもなれることを教えてくれる。その証拠に成瀬は島崎との友情に亀裂が入ったと思い動揺した際に、あれだけ熟達したけん玉も、京大にA判定が出るほど得意の数学(成瀬にはそもそも得意教科という概念がないらしいのだが)もまるで凡人以下のレベルでしか扱えなくなってしまっている。
髪の長さを測るために坊主から高校3年間一切散髪をせずに実験を行ったのも自発的なきっかけではあったものの、同級生の貫井からの言葉をその行動の大きな支えにしていたり、その貫井からもう切ってもいいんじゃないかと言われたことを言い訳にして中途半端に挑戦を辞めたことを島崎に指摘されると赤面する。
Z世代の象徴としての成瀬と島崎
この成瀬の凡人っぷりを最もよく知る人物が始めのエピソードから登場する成瀬の幼なじみ、島崎ではないだろうか。
成瀬は島崎に作中で幾度となくその凡人さ加減を指摘され(芸名を決める際のその致命的なネーミングセンスのなさなど)、挙句には目標ばかり立てそのほとんどを達成しないことを揶揄して面と向かってほら吹きとさえ呼ばれる。
実際に成瀬は多くの目標を立て、それを片っ端から喧伝することで、どれか一つでも叶えた時に、有言実行だと思ってもらえると思い、戦略的にビックマウスぶりを発揮していると明言している。
ある意味では多動、別の意味ではおそらく軽薄さなのだが、確かにそれが一つでも叶えば立派だなと感じる心もわかる。
また、成瀬は躊躇なく行動して、間違いだと思ったり、向いていないと感じたらその行動をキャンセルできるいい意味での軽さも持っている。これは芸人の件でよく表れている。初めはTVで観た芸人のネタが面白かったことをきっかけにM-1王者になることを目標に掲げて活動を始めるのだが、この道さほど楽ではないと知ると、潔く芸人の道を諦め、コンビを解散しようとする。それまでにネタの研究など真剣に努力はしているから、ちゃらんぽらんにはじめて、それを中途半端に辞めるというのとも違う。好きから始まって真剣にやってみて、違うなと感じたら撤退する。昔の一芸で成り上がろうとする人たちのように抜き差しならぬ、辞める続けるの悲壮がそこにはない。成瀬と島崎の年齢としては、コロナ禍に中学生を過ごしていることから、Z世代の後半組だと思うのだが、このあたりが非常にZ世代ぽさを感じる。
相方の島崎の方でも、成瀬に解散を告げられると年に一回の地元のお祭りの司会だけでもコンビで続ければいいではないか、むしろやる気マンマンだったんだが?と返す。
別に何か好きなことをやるからと言ってそれで食っていかなきゃいけないわけでもないし、そこまで本気でやらなくても趣味の範囲で好きと付き合うでもいいんだという心境をナチュラルに彼女たち(の世代)は身につけている。この辺りの本気さと身軽さのバランスが絶妙だ。
とまあこれだけ時代を反映していたり、していなかったり、えげつないほどキラキラに魅力的だったり、単に気持ち悪い変人だったりするのがこの物語の主人公である成瀬あかりなのだ。案外その魅力の本質は一見単純で痛快に見えて二面性や複雑さを抱えているところにあるのかもしれない。
ともかくも我々の不幸は成瀬あかりを語る物語を未だたった数編しかもたないということだろう。
それでも成瀬はリーダーになるべきじゃない?
それでも僕たちは島崎や貫井のような人間である方が楽だし、幸せかもしれない。成瀬に憧れるからといって、ここまでストイックにヒロイックに無理になろうとすることはない。きっと200歳になる前に体を壊すだろう。ある意味で彼女は自分ががんばれば平等にその結果が得られる時代の頑張りすぎるヒロインで、(これほどカッコいい成瀬にこんな言い方は失礼かもしれないけれど)がんばりすぎた結果、とんがり過ぎてどれだけ人と違ってしまうかを恐れる、でも同時にそれにどこか憧れ続けている僕たちのもう一つの自己像の投影なのかもしれない。
個人的には頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいと思うし、そのいずれもが許容されるのが健全な社会だと思う。
健全って言っておいてなんだけれど、朝5時からランニングして出会った人には片っ端から挨拶する女子校生という、大人が描いた不健全な健全さを地でいく成瀬にはやっぱり僕たちはなれないだろう。
成瀬だってきっと200歳までなんかは生きられない。
それでも、200歳まで生きるのが目標だと自信満々に言い切ってしまうこの女性には、不思議な魅力があって、それを信じてしまいそうになる僕たち聴衆は、あり得ないことを自信満々に断言して、しかもそれをあり得そうに聞かせるという危険なリーダーシップをどこかで求めているということ、時代の抱える怪しさがそこに透けて見えることにも気づくべきだろう。
そして成瀬の生き方を笑い、憧れ、痛快に感じ、一つの生き方として認めながらも、成瀬をリーダーにしてはいけないと思う。
いや、成瀬さん、200歳までは生きられませんって。
そりゃそんなに長く生きられたら嬉しいけど、もう肺も肝臓も歯茎もぼろぼろです、ボクたちは。
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