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純文学が秘める力

純文学と、内攻性。
この二つの言葉が隣り合わせに存在することは、特に不思議なことではないと思う。例えば、シリアスなテーマの純文学作品を読み終えたときに、なんとも言えぬ奇妙な感情のレイヤーが自分の内側で芽生え、また発達する感覚は、多くの人々が共有する体験のように感じられる。


1. 大衆文学・純文学の定義


そもそも、大衆文学と純文学の違いや正式な定義が曖昧であることはご承知の通りだが、しばしばそれらは目的の違いを焦点に演繹的に分類され、また個々人によって独自に定義される。最もよく言われるのは、純文学は芸術、大衆文学はエンタメという分類方法であろう。

第一、純文学が現在認識されているような意味合いを持つようになったのは、1961年の純文学変質論争による影響が大きいだろうから、この認識が定着しているのはある意味当然の結果とも言える。しかし、私は、大衆文学と純文学が読者に与え得る結果に着目することで、それぞれの全く新しい再定義を試みたい。

私の言う”大衆文学”と”純文学”では、それらが読者の意識空間のどこに到達するかに違いがあると信ずる。つまり、人の意識には標高があり、”大衆文学”はその意識の上層部に届くのに対し、”純文学”は意識の下層部──標高が0mを遥か下回ったところに身を隠す、意識の極致──に至る。山登りで表すなら、”大衆文学”は登山で”純文学”は下山とでも言えようか。

このように、意識のどの高さに到達したかという、我々読者のあくまで当事者の感覚から生じた結果によって二つを分類してみるのである。まあ、その登山とやらがエンタメで下山とやらが芸術じゃないのかと言われれば、その通りなのだが…。

2. 純文学の内攻性


とにかくこの下山というもの、永遠の下山と呼ぶべきものは、内攻性と等しく一致するのである。日常生活では常に眠っている自分の最奥の意識に忍び足で侵入し、読者の心身の内部から感情を呼び覚ますような行為のことを、私は内攻性と考える。

ここには、純文学──というか、”下山文学”──独自の世界線とテーマが大きく関わっていることは明白であろう。基本的に現実世界で起こり得るストーリーラインが構成されつつ、要所要所でなんとなくの異質感みたいなものが漂ってくる。そして、これは非常に主観的な意見だが、主にその異質感を主人公に対して抱くことが多い。多分、自らが現実世界で出来ようのない行動や思想、価値観、感じ方をする主人公によって自身のフラストレーションが発散されるからである。

三島由紀夫は、何かの著作で「現代には死のフラストレーションが溜まっている」というようなことを言っていた。死のフラストレーションと聞くと気が引けるかもしれないが、確かになんだかんだ平和で単調な現代社会では絶望とか、孤独とか、悪とか、恐怖とか、虚無とか、そういう人間本能が抑圧されていて、蓋をされたそれらのフラストレーションが内側で沸々と煮えたぎっている気がしてならない。

3. 19歳と太宰治


太宰治の熱狂的な読者には19歳が多いと聞いたことがあるが、それも非常に納得できる。私も19歳だからだ。

高校や思春期から一応卒業し、青年期に入り最後の10代を生きる19歳の表情には、どこか哀愁が漂っているものだ。思春期に部屋の壁を殴って穴を空ける程度では、彼らの奥底に潜むフラストレーションはほとんど発散できていないだろう。

その点、10代で戦争や学生闘争を経験した昔の日本人とは一線を画している。今なお太宰治に熱狂的な若者ファンが多くいるのは、各小説に出てくる同年代の登場人物らが彼らにそっと寄り添い、また彼らの代弁者となってフラストレーションを的確に代理発散してくれるからかもしれない。

4. まとめ


やっぱり、"内攻する純文学"は実に凄いものだ。現実と仮想の合間の絶妙な踊り場で、ある人にとっては社交ダンス、ある人にとってはヒップホップ、またある人にとってはkpopダンスを踊っているように見せることで、読者の心を開かせ、私たちの代弁者という欲望の忠実な捌け口になることで、意識の下層部まで侵食してしまうのだ。

※このnoteは、全て投稿者の主観的な考えによるものです。

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