#40 四万十川
季節によって思い起こすことは人によってそれぞれだと思う。春一番の生暖かい風を感じると大学進学を機に初めて一人暮らしをしたあの東京の町を思い出すし、冬の突き刺す寒さを肌に感じると少年時代に過ごし雪が多く降り積もった秋田を思い出す。
マルセル=プルーストが『失われた時を求めて』で表現したように、「4月」や「1月」になったからそれらを思い出すのではなく、「春一番の生暖かさ」や「冬の突き刺す寒さ」といった感覚が意識の底に深く沈んでいた記憶を掘り起こすのだ。
今日、四万十川を思い出した。炎天下の日、銭湯で冷水に手を浸したときにだ。かつて愛媛の松山から高知の中村へと車で向かったことがある。その中村の中心街から最も近い沈下橋へと立ち寄った。
沈下橋には橋の脇に欄干がない。四万十川は支流が多く、雨水はすべて本流の四万十川にそそぐ。そのためいとも簡単に増水する。増水時、橋面が水面下になる。だから、沈下橋という。沈下橋は「柔」の発想だ。流れゆく川に耐えるのではなく、身を任せる。そうして破壊を免れるのだという。
この沈下橋は佐田沈下橋という名称だったが、観光地化されており、鮎の販売や屋形船の遊覧がある。私はこの屋形船に乗り込み、四万十川をしばらく漂った。遊覧中、屋形船の主人が「この猛暑ですからぜひ川に手を浸してみてください」といった。この日は雲で陰りがありはしたが、本当に暑かった。言われるがまま、手を浸す。かなり冷たかった。彼は私たちの反応を待ったうえで「けっこう冷たいでしょう。四万十川は夏でも冷たいんですよ」といった。これが彼の持つ客の引き込み方だったのだろうが、なぜかこの事はとても印象的だった。その日の夜も四万十川へ思いを馳せながら就寝した。
そして今日、3年前のこの日のことを再び思い出した。今もなお、あの川の冷たさがいつまでも私の中で生き続けている。