視点次第だなと思うこと
いつも考えを聞いてもらうことが多い人に
「何で子どもがモノをこぼしちゃいけないのだろうね」ってことについて話を膨らませてもらった。
以前、外国と日本の子供の違いは…話をしていて、その一説でこの話も少しだけしたことがあった。
日本で多くの一般家庭では
子供に「この牛乳をコップに注いでごらんよ。」と牛乳とコップをテーブルの上に渡すと、がぜんやる気満々な子供の表情とともに元気な返事を聞くことが出来る、
それを見た大人もつられて表情が和らぎ、次に子供が牛乳を継ぎだした瞬間からは表情が変わり
顔の表情がどんどんこわばっていく
「どうかこぼさないで~こぼさないで~」と呪いのように頭の中を駆け巡り自然と「こぼさないでね、気をつけて~」と声をかけるだろう。
次の瞬間、案の定子供の手元が狂った牛乳は
コップから溢れだしテーブルや床にコップに注がれるはずだった牛乳が広がり落ちる。
大人は怒る「だから言ったでしょ!気をつけてって!もう!」
子供からしてみれば「新しいこと、試してみる?頑張ってみる?」のニュアンスで聞かれたから、好奇心が勝り「うん!やってみる」と試してみたのに…と。
大人が怒った瞬間子供は落ち込んだり、自然とごめんと謝ったり。
なぜ誤っているのか、なぜ試していいよと言われたのに誤らないといけないのか。正に理不尽である。
そんな光景を見て、この瞬間からこの子達の将来を刻々と潰しているのはまさに目の前の大人だな。と思った。
私も子供がいるが、この事例に気づいてから大げさだが、未来を潰さないように自分の行動を気をつけている。
外国の一般家庭では、たとえ牛乳をこぼした所で日本の様な感情にはならないらしい。主体性や個性、集団性の違いなのだろうか。
同じ様な例で、
ショッピングセンターに子供を連れて行き子供が飽きて、売り場を走りまわったり、大声を出すと大人は「こら!走らないの、行儀悪い、大声出さないでみんなに迷惑だから!」と。
そもそも、このショッピングセンターに連れてきたのは大人である。
子供ではなく、大人がお店に用事があるのに、大人のルールで縛るのはかわいそうだ。
「無理矢連れてこられたし、自分は用がないのに、騒ぐな、お行儀よくしろ、おとなしく大人の用事が終わるまで待っていてよ」と子供からしてみれば悲報のなにものでもない。笑
「なぜお店では騒ぐとみんなに迷惑がかかるからダメだと言うのに、
公園ではなぜ騒いでもいいの?」
子供にルールを守って欲しいのなら、
公園やアスレチックのある広場に連れていけば「お行儀が悪い子」ではなくなるわけなのだから。
なぜ、こぼしちゃいけない?
なぜ、走り回ったらいけない?
なぜ、大声出したらいけない?
なぜ、ミスしちゃいけない…その違いは何?
日本人特有の集団行動や同調圧力で、子供が納得できる説明ができないのなら、こんな中途半端な人格否定はやめた方が良いと私は思う。
子供にわかり易く言語化できるスキルを身に付けるのも、大人の役割であると思う。気をつけて生きていたい。