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現代版犬神 「犬神邸継承録」 ~都市の血縁に潜む呪い~
あらすじ
主人公・深澤詩織(25)は両親を早くに亡くし、都内の古びたアパート「犬神荘」に住む祖母から家を継ぐ話を持ちかけられる。
その家には「絶対に祖先から伝わる絵額を外してはならない」という奇妙な掟があった。
その額には墨の滲むような「犬神」という文字が描かれている。
家を受け継いだ詩織が引っ越し先で異様な出来事に巻き込まれていく。
隣人が突然犬のような仕草を見せる、夜中に遠吠えが響き渡るなど、狂気に蝕まれていく日常。
さらには額から文字が滲み出し、「血で書かれた文字だ」と祖母が呟く不気味な言葉に恐怖を覚える。
詩織は次第に自分の体に変調をきたし、犬の血が流れているのではという強迫観念に苛まれる。
やがて彼女は自らの血に宿る「犬神の呪い」と向き合う決意を固めるが、アパート全体が狂気に飲み込まれていく。
登場人物プロフィール
主人公:深澤 詩織(ふかざわ しおり)
年齢: 25歳
容姿: 身長165cm、切り揃えた黒髪ボブ。切れ長の目と高い鼻筋。普段はメイクを薄めにしているが、無表情が多いため「冷たい印象」を持たれることもある。
職業: デザイン会社勤務(現在は退職し、引っ越し後は求職中)
性格: 冷静で現実主義者だが、家族や血筋に関わる話には敏感。正義感が強い反面、孤立しやすい。
口癖: 「どうせ迷信でしょ?」と呟きがち。しかし次第に迷信的な言葉を無意識に口にするようになる(「犬神の祟り…まさか」など)。
背景: 両親を幼い頃に亡くし、祖母に育てられた。大学進学を機に都会で一人暮らしを始めたが、祖母の体調が悪化したことをきっかけに実家の「犬神荘」を継ぐ。
キーポイント:詩織の家系には「犬神の血」を宿すという不気味な伝説があり、特定の時期にその血が覚醒するという呪われた血筋の秘密が隠されている。次第に自身の体の異常にも気づいていく。
祖母:深澤 千代(ふかざわ ちよ)
年齢: 80代
容姿: 白髪が混じったアップヘア。しわが多い顔立ちに鋭い目つき。普段は和服を身につけ、杖をついている。
性格: 強い信念を持つ一方、非常に寡黙。必要最低限の言葉しか発しない。
口癖: 「家宝(犬神の額)は、命よりも重い」
背景: 犬神荘を守り続ける家系の最後の守護者。若い頃に家系の呪いを目の当たりにしたことで、家を出ることなく一生を過ごす。詩織が額に手を出すことを強く戒める。
隣人:桐島 輝美(きりしま てるみ)
年齢: 32歳
容姿: ショートカットで陽気な笑顔が印象的な女性。服装はラフなTシャツやジーンズが多い。耳に複数のピアス。
性格: 社交的でお節介。何事にも首を突っ込むタイプだが、隣人トラブルには巻き込まれることを恐れない強気な女性。
口癖: 「私って犬っぽい性格だからさ~、ガウッと行くのよ」
背景: 犬神荘の中でも噂話が好きで、他の住民の秘密に詳しい。詩織に親切にする一方で、額の話題を避けようとする。
謎の医師:加賀見 隆志(かがみ たかし)
年齢: 40代後半
容姿: 髪は短髪で白髪混じり、長身。眼鏡の奥の目が鋭く、常に冷静な表情。白衣がよく似合う。
性格: 皮肉屋だが観察力が鋭い。呪いについても「医学的なアプローチで解決できる」と断言する現実主義者。
口癖: 「迷信より科学のほうが確実だ」
背景: 犬神荘にまつわる伝説を偶然知り、詩織の家系に関心を抱く。詩織に対して協力するが、次第に呪いの力に疑念を抱き始める。
謎の少女:犬神 伶奈(いぬがみ れいな)
年齢: 10歳前後
容姿: 長い黒髪、瞳が金色に近い不思議な色。純白のワンピースを着ていることが多い。
性格: 無口で不気味な雰囲気を漂わせるが、時折詩織に親しげな態度を見せる。
口癖: 「もうすぐ、全部終わるよ」
背景: 犬神荘に棲みつく謎の存在。彼女が実在するのか幻覚なのかは不明。
現代版犬神 「犬神邸継承録」 ~都市の血縁に潜む呪い~
第1章:血に染まる引っ越し
祖母の深澤千代が入院したと聞かされたのは、仕事帰りの居酒屋で同僚たちと飲んでいる最中だった。
スマートフォンの画面には病院からの見慣れない番号。いつもなら迷惑電話だと思って無視するところだが、酒の勢いもあって応答ボタンを押してしまった。
「深澤千代さんのご家族の方ですね?」
若い女性の声が耳に届いた瞬間、嫌な予感が頭をかすめた。
祖母は強い人だ。
80代という年齢にもかかわらず、自分の足で畑仕事もするし、近所の町内会でも元気に顔を出す。
だからこそ、こうした「お知らせ」の電話がくるとは思ってもいなかった。
「祖母がどうしましたか?」
「持病の悪化で緊急入院されました。意識はありますが、できればご家族に一度来ていただきたく…。」
私は椅子から腰を浮かせ、支払いも忘れて店を飛び出した。
電車に揺られる間、祖母の顔が何度も浮かんでは消える。
上京してから連絡もまばらになり、最後に会ったのは半年前だ。
きっと彼女は私の不義理を叱るだろう――そう思うと胸が重くなった。
病室に入った時、祖母はやせ細った身体をベッドに沈ませていた。
呼吸器の音が規則的に響いている。
見舞いに来たことを告げると、祖母はかすかにまぶたを持ち上げた。
「来たのかい、詩織。」
声はかすれ、いつものような力強さはなかったが、それでも祖母らしい毅然とした響きだった。
「大丈夫?」「そんなことより…あの額のことを忘れちゃいけないよ。」
私は祖母の言葉に首を傾げた。
額――そういえば、実家の座敷に掛けられた「犬神」の文字が書かれた古い額があった。私はあの額を子供の頃から気味悪がっていた。
「額? まだそんなもの気にしてるの?」
「バカ言うんじゃないよ」
祖母は痩せた腕を震わせながら身を起こした。
その目には異様な光が宿っている。
「あれはね、ただの家宝なんかじゃない。あれがあるから、家が保たれてるんだよ。」
「…どういう意味?」
「お前がこれから家を継ぐんだから、あの額を絶対に外すんじゃない。命を賭けても守りな。」
何を言っているのか理解できなかった。
東京で自立した生活をしている私には、田舎の古いしきたりも迷信も何の意味もない。
けれど、祖母の目があまりにも真剣だったので、私はただ頷くしかなかった。
その2週間後、祖母は亡くなった。
私は弔いを終え、役所や不動産業者とのやりとりに追われながら、気がつけば祖母の家「犬神荘」を正式に相続していた。
引っ越しの荷物が片付いたのは初秋の夕暮れ時。
窓から差し込む薄い光が、座敷の中心にかけられた額を照らしていた。
「犬神…。」
墨色の文字が壁に浮かび上がるように見えた。
古びた額縁はところどころにヒビが入り、長い年月を感じさせる。
私は額に近づき、そっと手を伸ばした。
「詩織!」
不意に背後から声が響いた。
「なっ、何?」
隣に引っ越しの挨拶に来た隣人の桐島輝美が立っていた。
短髪の彼女は私より年上らしいが、笑顔が若々しい印象を与える。
「危ないじゃん、触っちゃだめだってそれ」
「え? どうして?」
「そりゃあ…あの家の人たちって、額に触ると呪われるって有名だし」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。
私はぞっとして手を引っ込めた。
「呪われるって、何それ?」
思わず桐島さんに詰め寄ると、彼女は少しバツが悪そうに笑った。
「ああ、悪い悪い。そういうの、田舎特有の迷信ってやつだって思ってさ。子供の頃からこの辺じゃ有名な話なのよ。」
私は眉をひそめた。
「迷信って、具体的にはどんな話?」
「いやー、血がどうとか犬がどうとかさ…私も詳しくは知らないんだけど、何か不気味でね。その額って“絶対に動かすな”って祖母さん、うるさく言ってたんでしょ?」
「確かに。死ぬ間際もそんなこと言ってた。
桐島さんは首をすくめてみせた。
「ほら、そういうことだって。ま、気にしない方がいいよ。東京に住んでた子に田舎の迷信なんてチンプンカンプンでしょ?」
「……。」
何も言い返せなかった。
その後、桐島さんは「じゃあ引っ越し祝いでも」と言って気さくにビールの缶を差し出して帰っていったが、私は妙な胸騒ぎを覚えたまま額の前に立ち尽くしていた。
迷信だってバカにするつもりだった。
祖母の言葉も、隣人の話もただの古臭い言い伝えにすぎない。
そう思おうとする一方で、祖母が息絶える間際のあの鋭い目が頭から離れなかった。
「まさかね…」
額の表面をもう一度見つめると、文字の隙間にわずかに滲むような赤黒い痕が見えた気がした。
光の加減だと自分に言い聞かせ、その場を離れた。
翌朝
新居で迎えた初めての朝は、なぜか血の匂いが鼻をついた。
最初は気のせいだと思ったが、キッチンや玄関を探しても匂いの元は見当たらない。
嫌な感覚を振り払おうとシャワーを浴び、着替えてリビングに戻ると、違和感に気づいた。
額の位置がわずかに傾いていた。
「昨日、動かしてないはずだけど…」
私は額に近づき、注意深く位置を確認する。
ネジもきちんと固定されている。
風で揺れるような重さでもない。それでも確かに数センチだけ傾いていた。
気味悪さを感じながら額を持ち上げた瞬間、背中に氷のような冷気が走った。
額の裏側――そこには、黒ずんだ犬の足跡がいくつも押し付けられていた。
「な、何これ…。」
土埃でできた痕跡に見えたが、この家に動物が入り込むはずもない。
私はそっと額を元の位置に戻し、深呼吸をした。
「気のせいだ。」
自分に言い聞かせて部屋を出ることにした。
こういう不安な気持ちは仕事や外の空気に触れればすぐに薄れるものだ。
桐島との再会
「おーい、深澤さん!」
玄関を出ると、ちょうど桐島さんが自転車で通りかかった。
「おはよ。どう? 昨日はぐっすり眠れた?」
「まあね…ちょっと気味悪いことはあったけど。」
「ん? 何かあったの?」
私はためらったが、額の話をすることにした。
桐島さんは真剣な顔で聞いてくれた。
「それって、額の裏に足跡があったってこと?」
「そう。まるで犬の足跡みたいな…。」
彼女の顔色が変わった。
「それ、やばくない?」
「え?」
「いや、あの額って犬神様にまつわるもんでしょ? 足跡なんてつくわけないじゃん。でももしそれが本当に犬の痕なら…。」
「桐島さん?」
突然、彼女は私の肩をつかんだ。
「ちょっと、あの額の位置ちゃんと直した? 傾いたままだとよくないって話、聞いたことあるよ。」
「どういう意味?」
「わからない。でも、昔から犬神荘では“額が傾いた時、何か良くないことが起こる”って言われてるの。」
「額が傾くと良くないことが起こるって…まさか。」
私は桐島さんの顔をじっと見つめた。
けれど彼女は曖昧な笑みを浮かべて言葉を濁すだけだった。
「まあ、迷信だよ。気にしないほうがいいって!」
そう言って彼女は自転車のペダルを漕ぎ、颯爽と去っていった。
言葉は軽い調子だったが、背中には微かな緊張がにじんでいた。
帰宅したのは夜8時を過ぎた頃だった。
周囲は静まり返り、古びた犬神荘の外壁は月光に照らされてぼんやりと浮かび上がっていた。
家に入ると、重い静けさが全身にのしかかる。
ふと玄関脇を見ると、今朝確認した額が目に入った。
…また傾いている。
「え?」
明らかにネジは固定されている。
それでも額はさっきよりも斜めにずれていた。
ぞっとして足元を見ると、薄暗い畳の上に黒い痕がある。
――犬の足跡。
何匹もが這いずったような跡が、額の下から廊下にかけて点々と続いている。
「嘘でしょ…。」
足跡の湿り気から、ついさっきまで誰か――いや、何かがここを歩いていたことは明白だった。
心臓が早鐘を打つ。隣人が言った「額が傾くと良くないことが起こる」という言葉が嫌な形で脳裏をよぎる。
玄関ドアの鍵を確認し、すべて施錠されていることを確認した。
窓もすべて閉じたはずだ。
それなのに、どうやってこんな痕がつくというのだろう?
「まさか…本当に…。」
不安な気持ちを振り払おうと額に手を伸ばし、強引に位置を直した。
すると――額が一瞬だけ赤く輝いた。
「えっ?」
見間違いかと思ったが、額の文字の部分が確かに赤く染まっていた。
墨色だったはずの「犬神」という文字は、まるで血の滴りのように滲み出している。
急いで額から手を引くと、ふと背後に気配を感じた。
誰かが立っている。
「……桐島さん?」
振り返ると、廊下の暗闇に白い影がぼんやりと浮かんでいた。
長い黒髪の少女がこちらを見つめている。
「……誰?」
その子供は私の質問に答えることなく、すっと廊下の奥へ消えていった。
不可解な足音
少女の姿を追いかけようとしたが、足がすくんで動けなかった。
代わりに廊下の先から「カチ、カチ」という爪のような音が響いてきた。
犬? まさか、そんなわけがない。
しかし音は次第に近づいてくる。爪が畳に擦れる乾いた音が耳に響き、心臓が締め付けられるような感覚に陥った。
「……誰かいるの?」
声は震えていた。返事はない。
それでも足音だけが廊下を這うように続いている。
私は勇気を振り絞って廊下を進み、電気をつけようとスイッチを探った。しかし――
灯りは点かない。
「ちょっと待って…。」
廊下は相変わらず真っ暗だった。
焦りながら足を進めると、不意に冷たいものが足元をかすめた。
「うわっ!」
思わず後ずさる。
見下ろすと、廊下に黒々とした濡れた跡が伸びている。
それは犬の足跡のように見えたが、
よく見るとまるで血が引きずられたような形状だった。
「嘘…血?」
目を凝らすと、廊下の奥にうっすらと光が見える。
額がある部屋だ。私は恐る恐るその部屋に足を踏み入れた。
血文字の額
額の前に立った瞬間、胸の奥がギュッと掴まれるような感覚に襲われた。額に浮かぶ文字――「犬神」の筆跡が生き物のように震え、血の色を帯びて蠢いていた。
「なに…これ…。」
額からはポタリ、ポタリと赤い液体が滴り落ちていた。
私はその液体を避けるように後退し、額を見上げた。
その時、頭の中で誰かの声が響いた。
「額を直せ……さもなくば、お前も犬になる。」
それは祖母の声にも似ていたが、どこか違う冷たい響きが混じっていた。
私は反射的に額を持ち上げ、正しい位置に戻した。
その瞬間――
「ギャゥン!」
背後から犬の悲鳴のような声が響き、部屋中に冷たい風が吹き荒れた。
額の文字は再び墨色に戻り、静寂が訪れた。
息を切らせながら振り返ると、廊下にはもはや足跡も血痕もなかった。
私は額の前に膝をつき、心臓が早鐘のように鳴るのを必死で抑えた。
第2章:祟りの足音
額の異変は何事もなかったかのように静まり返り、部屋には冷たい空気だけが漂っていた。
私は額に触れる手を引っ込め、荒れた呼吸を整えようとする。
「なんなの…これ…。」
現実離れした出来事に頭が追いつかないまま、額から滴った赤黒い液体の跡を見つめる。
血――そうしか言えない。それに犬の爪音や不気味な少女の姿。
「これは、ただの幻覚なんかじゃない…。」
震える手でスマートフォンを取り出し、桐島さんにメッセージを送った。
詩織:額にまた異変があった。ちょっと話せる?
既読がついたのはすぐだった。
桐島:うわ、まだ傾いた?それとも別のこと?
詩織:うん、なんか血が出たみたい…
一瞬、メッセージ入力中のマークが表示されたが、その後は既読だけがついて返信はなかった。
私はじわじわと押し寄せる不安感に耐えきれず、急いで家を飛び出すことにした。
深夜の訪問者
外はしんと静まり返っていた。
虫の音もなく、犬神荘の周囲は異様なほど無音だった。
周囲の家々も灯りが消え、私だけが夜の闇に取り残されたような錯覚を覚える。
桐島さんの部屋の前まで行き、インターホンを押した。
しかし反応はない。何度か押しても返事はなかった。
「どうしたんだろう…」
隣人とはいえ、深夜に家まで訪れるのは気が引ける。
私は仕方なく自分の家に戻ろうとした。
その時、不意に背後から気配を感じた。
「……誰?」
振り返ると、闇の中にうっすらと白い影が浮かんでいた。
――あの少女だ。
金色の瞳が闇に光り、私をじっと見つめている。
心臓が跳ね上がる。
「あなた…誰なの?」
問いかけても、少女は答えずにスッと路地裏に消えていった。
私は迷うことなく追いかけた。
少女の導き
路地裏は薄暗く、足元の見えないほどの闇に包まれていた。
それでも私は躊躇しなかった。
不思議と少女に対する恐怖はなかった。ただ、彼女の存在がこの異変の答えを知っているような気がした。
「待って!」
息を切らしながら追うと、少女は古びた石造りの小道の先に立っていた。
その場所は、犬神荘の裏庭に繋がる古い祠の前だった。
「ここは…。」
祖母に「絶対に近づくな」と言われていた場所だ。
祠の周囲には雑草が生い茂り、石段も苔で覆われている。
祖母は祠を「犬神様の眠る場所」と呼んでいたことを思い出した。
少女は無言のまま私を見つめ、石段を指差した。
その先には古びた木扉があった。
「開けろっていうの…?」
彼女は小さく頷いた。私は戸惑ったが、妙な確信があった。
この場所には私が知るべき何かが隠されている――そんな気がしてならなかった。
祠の扉の向こう
私は扉に手を伸ばし、力を込めて開けようとした。
しかし、扉は長年の錆びつきでビクともしない。
少女はじっと私を見つめている。
「どうしても…開けなきゃいけないの?」
彼女は再び頷いた。
その瞬間、不意に耳鳴りのような音が響き渡り、扉がひとりでにガタリと揺れた。私は驚いて手を引っ込める。
「なに…?」
扉が開き、中から冷たい風が吹き抜けた。
その風には血と土の匂いが混ざり合っていた。
奥は真っ暗で何も見えない。
「……。」
少女はその暗闇を指差した。
そしてかすかに言った。
「――あなたが、選ぶ時だよ。」
「選ぶ…?」
その言葉の意味を理解する間もなく、私の意識は暗闇に引き込まれていった。
不吉な予兆
意識が引きずり込まれる感覚に抗う間もなく、私は目の前の景色を失った。
暗闇の中、冷たい土の匂いと耳鳴りのような音が響いていた。
自分が立っているのか倒れているのかさえわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある――ここは現実の場所ではない。
「詩織……。」
誰かの声が耳元に囁いた。
「誰?」
必死に声を出したが、喉からは掠れた音しか出ない。
足元から泥のようなものが這い上がり、足首を捕らえていく感触がした。
「額を……守れ……」
祖母の声だ。
「おばあちゃん? どこにいるの?」
その時、視界がぼんやりと明るくなり、私は祠の内部に立っている自分に気づいた。
周囲は湿った石壁に囲まれ、所々に古びた護符のような紙が貼られている。その中央に、異様な石の祭壇が鎮座していた。
血に染まる祭壇
祭壇には古びた木箱が置かれていた。
その表面には、犬神荘にあった額と同じ「犬神」の文字が彫られている。
しかもその文字は、赤黒く染まっていた。
血だ――そう思わざるを得なかった。
私は震える手で木箱を触り、そっと蓋を開けた。
「……っ!」
中には黒い毛に覆われた何かが納まっていた。
それは犬の頭蓋骨だった。牙は鋭く、まるで今にも噛みつこうとするかのような形をしている。
頭蓋骨の表面には奇妙な文様が刻まれていた。
その時、頭蓋骨の奥から低い唸り声が響いた。
「グルルル……」
箱の中から何かが目を覚まし、怨念のような気配が立ち上った。
私は後ずさりしたが、足元の泥が再び絡みついて動けなくなった。
「いや、来ないで!」
唸り声は次第に強まり、祭壇全体が震え始めた。
石壁がひび割れ、護符が次々に剥がれ落ちる。
少女の導き
絶望的な気分に陥ったその時、不意に背後から誰かが私の手を掴んだ。
振り返ると、あの少女が立っていた。
「こっちに来て。」
彼女は私の手を引き、石の祭壇から離れるように導いた。
私は訳もわからず彼女に従った。
足元の泥は彼女の存在を感じると消え去り、私はようやく自由に動けるようになった。
「ここは何なの? あの骨は一体…。」
少女は静かに答えた。
「それは犬神様の器だよ。」
「器…?」
「封印が弱まっているの。あなたの血がそれを引き寄せた。」
私は息を飲んだ。
「私の血が?」
「あなたも気づいているでしょ。犬神の家に生まれた者の血は、特別な力を持つの。でも額を通してその力が解放されたら、もう人間には戻れない。」
額――。
私は祖母が何度も言っていた言葉を思い出した。
「額を守れって言われたけど、どうしてあんなものが重要なの?」
「額は血の封印だから。あなたの家系がこの場所に犬神を封じた証。その血が絶えた時、犬神は完全に自由になる。」
私は頭が真っ白になった。
額を外すという行為が、ただの家宝の管理を怠ることではなく、何かもっと恐ろしい事態を引き起こすことを意味していたのだ。
帰還
不意に視界が暗転し、私は祠から引き戻されるような感覚を覚えた。
気がつくと、再び犬神荘の座敷に立っていた。
額は元の位置にかけられており、赤黒い滲みも消えていた。
「戻ってきた…。」
夢だったのか、それとも現実だったのか。
判断がつかなかった。しかし足にはまだ泥の感触が残っていた。
あの祠は現実だ。私が経験したこともすべて。
「額を…守らなきゃ。」
私は額に向き直り、拳を握った。
たとえ何が起ころうとも、祖母の言葉を守らなければならない。
額は私自身の血の運命と繋がっているのだから。
第3章:額の封印
翌朝、私は額の前に立ち尽くしていた。
墨色に戻った文字、静まり返った部屋。
昨夜の出来事がすべて幻だったと思い込みたい気持ちと、そうではないという現実がせめぎ合う。
「本当に夢だったのか?」
私は額の表面にそっと手を伸ばした。
触れるとわずかにひんやりとしている
。額の裏側には、昨日見た犬の足跡も残っていなかった。
「幻覚じゃない…祠のことも、犬神の骨も現実だ。」
頭の片隅に祖母の声がこびりついて離れない。
「額を守れ」というあの強い言葉が、今になって重みを増していた。
隣人たちの異変
その日の昼、私は買い出しを終えて家に戻る途中、隣人たちの異変に気づいた。
桐島さんの隣に住む50代の男性が、前庭で犬のように地面を掘り返している。
素手だ。泥が爪の間に入り込み、彼はそれを気にも留めない様子だった。
「あの…大丈夫ですか?」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。そ
して振り返ると、妙な笑みを浮かべた。
「何でもないよ、ただ…地面の中にいい匂いがしたんだ。」
彼の目はどこか虚ろで、理性を失っているように見えた。
私は背筋に寒気を覚え、その場を離れようとした。
しかし、離れる間際に気づいた。
彼の足元に犬の足跡がいくつも残っていたことに。
まるでその痕跡を辿るようにして彼が地面を掘っていたかのように見えた。
桐島さんの失踪
夕方になり、私は桐島さんの部屋を訪ねた。
しかし、インターホンを押しても返事はなかった。
「おかしいな…。」
昨日から桐島さんと連絡が取れなくなっている。
私はふと、ドアノブに手をかけた。試しに回すと、意外にも鍵は開いていた。
「桐島さん?」
恐る恐る中に入ると、リビングは散らかり放題だった。
雑誌や洗濯物が床に放置され、キッチンには使いかけの鍋がそのままになっている。
「桐島さん?」
再び声を上げるが返事はない。
嫌な胸騒ぎがして部屋の奥へ進む。寝室のドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
壁一面に赤黒い文字が書かれていた――「犬神、犬神、犬神」。
繰り返し書かれた文字は、まるで血で書いたような色を帯びていた。
「何…これ…」
私は足が震えるのを抑えながら部屋を見渡した。
床には泥まみれの足跡が無数に残っていた。
そして、その足跡は窓の外へと続いていた。
開け放たれた窓の外には、庭に続く泥の道が伸びている。
「まさか…」
私は桐島さんが家を出て何かに引き寄せられたのではないかという不安に襲われた。
医師・加賀見の訪問
翌日、私は一人で事態に対処することができず、祖母の友人だった医師の加賀見隆志を訪ねた。
「加賀見先生、相談があります。少し不気味な話なんですが…。」
私は額に起きた異変、祠のこと、桐島さんの失踪をすべて話した。
加賀見は私の話を黙って聞いていたが、やがて深く息を吐いた。
「額の話か。あれはお前の祖母が異常なまでに大事にしていたな。」
「祖母は“あれが家を守る”って言っていました。」
加賀見はしばらく考え込んでから言った。
「実はな、昔から深澤家の血液に異常があることが知られていたんだよ。極端な例だと、血液が通常の人間のものと違う性質を示すことがあった。」
「…犬の血、ってことですか?」
私は半ば冗談のように言ったつもりだった。
だが、加賀見の顔は真剣だった。
「犬神の伝説がそれに由来しているのかもしれないな。」
「そんな…本当に?」
「まだ医学的な説明はできないが、一つだけ確かなことがある。
お前の家系に伝わる額は、単なる家宝ではない。あれは何かを封じるために存在している。」
第4章:血に囚われた家系
加賀見先生の言葉が頭の中で渦を巻いていた。
「あれは何かを封じるために存在している。」
額はただの古い家宝ではなかった。血の伝承、犬神の祟り、その中心に額があるということ。
「先生、それならあの額をどうすれば…?」
「わからん」
加賀見は真剣な表情で首を振った。
「医学的な視点では説明できない現象だ。ただ、もし本当に祟りのようなものが存在するなら、それを解放するのはお前の血――深澤家の血筋に宿る何かだ。」
「私の血が?」
「お前が祠で見たという“犬神の器”、それが封印の中核だとすれば、額はその器に蓋をする役割を担っているのかもしれない。」
「それって、額が壊れたら…?」
「祟りが解放される」
私は息を呑んだ。額の傾き、血の滲み、そして祠で見た犬神の頭蓋骨――すべてが一本の線で繋がった。
「詩織、額を何があっても守れ。お前自身のためにもな」
桐島の異常な帰還
その日の夕方、私は犬神荘の前で異様な光景に出くわした。
道路の向こうから、泥まみれの桐島さんがよろよろと歩いてきたのだ。
髪は乱れ、服は泥と血で汚れていた。
「桐島さん!」
彼女はぼんやりとした目で私を見た。
「……詩織?」
声はかすれていた。
私は慌てて彼女の腕を掴んだ。
「大丈夫? どこに行ってたの?」
桐島さんは少し考えるように首を傾げた。
「…覚えてないの。でも、犬の声が聞こえて…その声に呼ばれてた。」
私は背筋が凍る思いだった。
「犬の声?」
「うん。何度も何度も。『来い』って」
その時、桐島さんの顔が一瞬歪んだ。口元が不自然に引きつり、犬のような表情に変わった気がした。
「桐島さん?」
彼女はハッと我に返り、動揺した様子で手で顔を覆った。
「私、どうかしてる…。」
額の異変
桐島さんを家まで送り届けた後、私は重い気持ちで自分の部屋に戻った。
額を見ると、再び傾いていた。
「また…。」
恐る恐る額に近づき、まっすぐに戻そうと手を伸ばした瞬間、今までとは違う異変が起こった。
額から赤黒い液体が滲み出し、文字全体が禍々しい光を帯びた。
「うっ…!」
私は反射的に手を引っ込めたが、額はますます激しく震え始めた。
壁が揺れ、額が今にも落ちそうになる。
「何とかしないと…!」
私は咄嗟に額を掴み、力を込めて元の位置に押し戻した。
額はピタリと震えを止めたが、その代わりに背後から低い唸り声が響いた。
「グルルル……」
振り返ると、廊下の奥に犬のような黒い影が見えた。
その姿は徐々に輪郭を持ち始め、やがて異様な姿を成した。体は犬のようだが、顔は人間のように歪んでいた。
「……犬神?」
その影はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる
。足元に血のような跡を残しながら。
「来ないで…!」
私は必死に声を上げたが、影は止まらなかった。
その時、額が突然光を放ち、黒い影に向かって稲妻のような閃光が走った。
「ギャウッ!」
影は苦しげな声を上げると、煙のように消えていった。額は再び静かに戻り、部屋には不気味な静けさだけが残った。
決意
私は額の前に膝をつき、荒い息をついていた
。額が犬神を封じ込める力を持っていることは間違いなかった。
しかし、それも長くは持たないだろう。
「このままじゃ…いけない」
私は加賀見先生の言葉を思い出した。
「祠に戻る必要がある」
額の秘密、犬神の器、そして私自身の血。すべての答えがあの祠にある。私は立ち上がり、拳を固く握った。
「終わらせる…絶対に」
第5章:祠への帰還
翌朝、私は祠に向かう決意を固めた。
昨夜、額が放った閃光と犬神の影は、もう現実から目を背けられないことを示していた。
加賀見先生も頼りにはなるが、最終的にこの問題を解決できるのは私自身だとわかっていた。
「終わらせなきゃ。」
私は額を一瞥し、深呼吸をしてから玄関を出た。
異様な空気
祠へ続く裏道は湿った苔の匂いが漂い、朝日が差しているにも関わらず薄暗かった。
空気が重く、胸に何かがのしかかるような感覚があった。
ふと、誰かの気配に気づいて振り返った。
「桐島さん?」
泥まみれの服を着た桐島さんが道端に立っていた。
顔には昨夜の異常な表情はなく、ただ無表情でこちらを見つめている。
「何をしてるの?」
桐島さんは少し首を傾け、かすれた声で呟いた。
「呼ばれたの」
「誰に?」
「犬神様」
背筋に寒気が走った。
彼女の目には理性の光が見られなかった。
私は何か言おうとしたが、桐島さんはその場にしゃがみこみ、泥を掘り返し始めた。まるで犬そのものの動作だ。
「桐島さん、やめて!」
私は彼女の腕を掴んだが、その力は異常なほど強かった。
「駄目だ、桐島さん!」
彼女の腕を引き剥がすと、突然彼女の口から低い唸り声が漏れた。
「グルルル……」
私は桐島さんの手を離し、後ずさった。彼女の顔は徐々に歪み、口元が犬のように尖り始めていた。
「お願い、戻って!」
しかし桐島さんはもう人間ではなかった。彼女は地面に四つん這いになり、そのまま森の奥へ駆け込んでいった。
祠の異変
私は桐島さんの異常に動揺しながらも、祠へと足を進めた。
石段を上ると、祠の扉は以前よりも大きく開かれていた。
中からは冷たい風が吹き抜け、血と土の混じったような異臭が漂っていた。
「戻ってきたよ…。」
私は祠の中央に立ち、再び石の祭壇を見つめた。
昨夜見た犬神の頭蓋骨はまだそこにあったが、表面の文様はさらに赤黒く染まり、脈打つような動きを見せていた。
「まるで生きてるみたい…。」
頭蓋骨からは微かな唸り声が響いていた。
それは犬神そのものの息吹のようだった。
犬神との対峙
「詩織……。」
頭蓋骨から不気味な声が響いた。
「お前の血を寄越せ……。」
「嫌だ。」
私は拳を握りしめた。
「額を守ってきたのは、犬神なんかを自由にしないためよ。」
「額では私を封じきれない……お前自身の血こそ封印の鍵だ。」
その言葉に頭の中が混乱した。
額だけでは封印できないというのなら、私はどうすればいい?
「なら、私の血で終わらせてやる!」
私は額から受け継いだ力が自分に流れ込むのを感じた。
手をかざすと、祠の中に光の刃が現れた。
それは祖母が言っていた「血の守り」を象徴する力なのだろう。
「消えろ!」
私は光の刃を頭蓋骨に向けて振り下ろした。
「ギャウゥゥン!」
頭蓋骨が砕け散り、赤黒い霧が祠の中に広がった。
霧は苦しむようにうねり、やがて完全に消えていった。
静寂の祠
すべてが終わった。
私は膝をついて息を切らしていた。
祠の中にはもう不気味な気配は残っていなかった。
「終わった…。」
額の封印が再び強化されたことを直感的に感じた。
「ありがとう、詩織。」
耳元で祖母の声が聞こえた気がした。
帰還
私は祠を後にし、犬神荘へ戻った。
桐島さんの姿はどこにもなかったが、彼女が元に戻ったことを祈るしかなかった。
額は再び静かに壁にかけられていた。
墨色の文字は鮮やかに残り、これからも家を守る役割を果たすだろう。
「守ったよ、おばあちゃん。」
私は額を見つめながら、深い安堵の息をついた。
完