想いは、伝え手が「届けたい」と思うだけでは届かない。[劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク]
【注意】こちらの記事は「劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク」のネタバレを含みます。映画をご覧になっていない方は、映画をご覧になったあとに読んでもらえると嬉しいです。
さて、今のこの文を読んでくださっているということはすでに映画を鑑賞された方で間違いないですね?それでは改めて、「劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク」の感想と考察を最速(自称)でお届けしたいと思います。早起きして朝8時に見てきましたが、まだ一回しか鑑賞してないのでかなり浅い解釈になるかもしれません。しかし初見でのインスピレーションを大切に残したいという意図で書いてみます。先に断っておきますが、筆者はダメなものにはちゃんと批判するタイプですが、今回の記事では批判はほぼなさそうです。なにせものすごく良かった映画でしたからね!
コミュニケーションは伝える側と受ける側の双方「想い」で成り立つ、どちらも欠けてはならない
今回の映画で感じたシンプルなこと。それはコミュニケーションとは伝える側が「伝えたい」と思っても相手に必ず届くとは限らない、ということです。伝える側が一方的に「届けたい」と思っていても、受け手がその気持ちを受け止める準備ができていなければ、コミュニケーションは成立しないのです。これは人間にとって非常に基本的なことですが、基本であるが故にとても大切で、蔑ろにしてはダメなものであり、丁寧に向き合わなければいけないことです。今回のプロセカの映画で改めてそれを学びました。
今回の映画、「『閉ざされた窓のセカイの初音ミク』では届かなかったけれども一歌たちの作った歌であれば届いた」というお話だと思った人がいるかもしれないですが、筆者はそうではないと思います。想いを伝えるためには、適切な表現、適切な場所やタイミング、そして何より肝心な「受け手がその想いを受け取るための準備ができているか」、が重要になるのではと思います。
映画終盤で、「Leo/need」「MORE MORE JUMP!」「Vivid BAD SQUAD」「ワンダーランズ×ショウタイム」はそれぞれ別の会場でライブに参加しましたし、 「25時、ナイトコードで。」はいつものようにオンライン上で作品を発表しました。5つのユニットが同じ場所で自分たちの作品を発表したのではなく、それぞれ異なる場所で発表したのがポイントだと思っています。この演出について考えてみます。
「Leo/need」「MORE MORE JUMP!」「Vivid BAD SQUAD」「ワンダーランズ×ショウタイム」 「25時、ナイトコードで。」がそれぞれ異なる場所で自分たちの作品を発表したことは何を意味するかというと、受け手の人たちにとっては「想いを受け取る表現方法が異なる」こと、「想いを受け取る場所(タイミング)が違う」ことです。
たとえば、アイドルのライブ会場とバンドのライブ会場では雰囲気も客層も違うでしょうし、ストリートユニットのイベント会場とテーマパークでも同様です。現実世界とオンライン上での差異についても言うまでもありません。これが、「想いを受け取る場所(タイミング)が違う」ことです。場所がバラバラであることによって、5ユニットの作品がそれぞれ全く違う人たちに届いているのです。熊本に住んでいる人と東京に住んでいる人では参加できるライブが物理的に異なるのは当然です。
次に表現の方法ですが、バンド音楽とアイドルソングとストリートソングとミュージカル、それからアンダーグラウンド的な暗い楽曲では、それを好きだと思う客層も異なるはずです。全部好きって人もいるだろうし、これとこれが好きって人もいるだろうし、これだけは苦手って人もいるだろうし、全部嫌いって人もいるかもしれません。趣味趣向は人それぞれだからです。
なので、伝え手としては受け手がどのような方法で受け取りたいと思っているのかを考え、受け手に伝わりやすい適切な表現で伝える必要があると思うのです。「Leo/need」で伝わらない想いでも「ワンダーランズ×ショウタイム」なら届けることができるかもしれない。「MORE MORE JUMP!」で届かない人でも「Vivid BAD SQUAD」の音楽なら想いが伝わるかもしれない。明るく元気で人を応援する曲を憎んでいる人でも、「25時、ナイトコードで。」の苦しみを歌った曲なら寄り添うことができるかもしれない、そういう話です。全ての人に届く言葉や歌なんてありません。
なぜ「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」の歌は届かなかったのか?
「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」は現実世界の「諦めた人たち」から見るとただのノイズでしかありませんでした。ノイズなのだから、それが歌なのか初音ミクなのかもわかるはずがなく、見たくない・聞きたくないとなるのは当然だと思います。歌が届かなかったのはシンプルにそれが理由だと思います。
ポイントになるのは、現実世界にいる人たちによって「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」のノイズの見え方がそれぞれ異なっていることです。冒頭に出てきた小さな子どものように、ハッキリと「ミクちゃんだ」と認識できる人もいれば、「諦めた人たち」のようにただのノイズにしか見えない人たちもいました。一歌たちにはノイズなしで見えていましたが、これも見る人によって「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」の見え方が変わっている描写の1つです。
一方で、「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」から見ても歌を届けたい人たちの顔にはノイズがかかっていました。「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」から見た人たちの顔にもノイズがかかっているということは、もしかしたら「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」の心の中にも、ある種の諦めの気持ちみたいなものも芽生えていたのかもしれません。映画の序盤では現実世界の人たちの顔にはノイズがかかっていなかったが、中盤になってノイズがかかるようになったのか、あるいは最初からノイズがかかっていたのか、まだ一回しか鑑賞してないのでうろ覚えですが。
一歌たちの想いによって「彼ら」が想いを受け止める準備が整った
ノイズの酷さが人によってまちまちだったのはなぜでしょうか。一歌たちには「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」がくっきりとノイズなしで見えていたので、ここから考えてみます。一歌たちは普段からセカイに行き来し、セカイと繋がっています。だから「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」をノイズなしでハッキリ見ることができた可能性もあります。しかしこれだと、「Leo/need」や「MORE MORE JUMP!」などのように、それぞれのセカイでミクと面識がなければ「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」と会えないのでしょうか?映画終盤では大勢の人たちに「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」の姿が見えているので、これは違う気がしますね。
筆者の考えとしては、「一歌たちには『閉ざされた窓のセカイの初音ミク』の歌を聴く準備ができていたから」だと思います。あるいは、自分の夢を諦めているかどうかなどであれば可能性はありそうですね。今回は「歌を聞く準備」の線で考えてみますが、現実世界で夢破れて諦めていた人たちには、「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」の想いを受け止める準備ができてなかったのだと思います。苦しみ絶望しているのだからそれは当然です、「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」も「彼ら」もどちらが悪いとかそういう話ではありません。ただ音楽という表現手法でコミュニケーションを取る上で、伝え手の表現方法だったり受け手のタイミングなどが噛み合わなかったのだと思います。
さて、映画の終盤で「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」が現実世界の人たちにもノイズではなく本来の姿で認知され、彼女の歌(想い)が届いたのはなぜでしょうか。それは、「Leo/need」「MORE MORE JUMP!」「Vivid BAD SQUAD」「ワンダーランズ×ショウタイム」 「25時、ナイトコードで。」が彼女の想いをそれぞれで汲み取って新しい作品を創って披露したことで、現実世界で夢破れて諦めていた人たちが想いを受け止める準備ができたからだと思います。一歌たちの音楽だから伝わったのではなく、それぞれ異なる表現手法である5つの楽曲が諦めていた人たちの心を動かし、「音楽に耳を傾けてみよう」と音楽を聴く気になったからこそ、ようやく「ハローセカイ」が届いたのではないでしょうか。
プロジェクトセカイらしい、「思いやり」に溢れた映画だった
今回の映画のテーマを筆者は以上のように解釈しました。この記事を書いていて思ったのは、このテーマもそうですがこの映画はプロセカらしい、思いやりに溢れている作品だなということです。プロセカのゲームをやっている方ならわかると思いますが、キャラクターたちが「ありがとう」と言う頻度がすごく多いですし、ヴァーチャルライブなどのイベントでも「もしよかったら聴いてくれたら嬉しいな」みたいに、相手に対して思いやりを持った優しい言葉が多いです。しかしそういったポリティカルコレクトネス的な配慮ばかりされた作品かというとそうでもなく、扱ってるテーマはある人にとっては不快になるだろう表現や問題もあるし、みていて気分が悲しくなるような暗いエピソードだってあります。
今回の映画でもそういう表現がありましたね。現実世界の人たちが「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」に向かって一斉に「消えろ!」と叫んでいるシーンはみていて「うっ」となったし、悲しい気持ちになりました。ですがそんな暗い気持ちでさえも、人間の大切な一部なのです。人生は明るく楽しいことばかりじゃありません。暗く悲しく、辛いことの方がきっと多いのでしょう。「それでも」、私たちは諦めずに生きていかなければなりません。「プロジェクトセカイ」という作品で一貫して描いているテーマはそういうものだと思うし、だからこそ私はこの作品が大好きです。
そういう意味で、この映画はこれまで何年も追いかけてきたプロセカらしい作品に仕上がっていると思いました。3周年記念のダイジェストアニメーションを見たとき「プロセカがアニメ化するときは、このハイクオリティのアニメで作って欲しいなぁ」と思っていた製作陣そのままで実現してくれたので、鑑賞前からこの映画はまず失敗することはないだろうなぁと思っていました。結果は予想通りすぎていい意味でつまらなかったですね(笑)。とはいえ世の中には良いアニメを見たいと思っても制作陣に恵まれないファンもたくさんいるので、プロセカのファンたちは自分たちが幸せなのだともっと自覚してもバチは当たらないと思います(笑)。アニメ化に失敗した作品の界隈から見たら妬まれるレベルだと思います、マジで。
5ユニット全員歌唱の「群青讃歌」で感極まってしまう
個人的な話ですが、「群青讃歌」が本当に大好きな曲です。初めて行ったプロセカのライブイベント、セカライ1stのアンコール最後の曲で「群青讃歌」が流れたときは感動して泣いてしまったぐらい大好きです。プロジェクトセカイをこれでもかというぐらい体現している、プロジェクトセカイの基本と言える曲だと思ってます。群青を讃歌する、青春や人間讃歌やプロセカの原液ともいえるような思想がたくさん詰まった傑作です。オーバーですが聴いているだけで泣けてくるような曲です。そんなただでさえ思い入れのある曲を、まさかこの劇場版で一歌・みのり・こはね・司・奏だけでなく5ユニット全員で歌ってくれるとは感無量です。「群青讃歌」はプロセカを体現したような曲なのだから流れてくれたら嬉しいなぐらいに思ってましたが認識が甘かったですね、最高でした。
あとは作画がずっとよかったし、ライブシーンは全部手描きだったし、遠回しのカットはCG使ってただろうけども全く違和感なかったし、モブキャラもカメオ出演的に色々出てたのも嬉しかったですね。あまりにも出来のいい作品だったので繰り返し映画館に足を運ぼうと思いました。1つ気になったのが、あるセカイが他のセカイに干渉することがあるのか?ということですが、ニーゴのメイコが「それはありうる」みたいなことを言っていた気もするので、そこらへんの謎についても繰り返し見て考察を深めようと思います。この映画のおかげでプロセカのモチベがさらに上がりましたし、来週の幕張メッセのセカライ4thも楽しみです。それに過去のイベントシナリオも読み直して、考察記事をアップできたらなと思いました。最後に一言。
まふゆの机の上にあった青チャートがめっちゃ気になった。
修正履歴
ver1.1 2025年1月18日 文章を一部修正
ver1.0 2025年1月17日 執筆