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バツミクを物語の中心に据えた利点とは?メタ的に考えるプロセカ映画[劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク]

今回はプロセカ映画を2週目に見た考察記事となります。1週目で見逃した部分や、1週目の余韻に浸りながら考えたこと、劇場用パンフレットの制作者インタビューなどを読んで考えたこと、それらを踏まえた「よりメタ的な考察」(物語の外や、制作周りの話)です。

公開初日に書いた記事がこちらです。幸いにも温かいコメントをいただけたり、PV数も日を追うごとに増えてます。よろしければ、今回の記事と合わせてご覧いただけると嬉しいです。文字数の都合上、今回書ききれなかった内容面の話は次回以降に書くつもりです。


長すぎず、短すぎない上映時間

映画本編の上映時間が105分なのは、なかなか良い塩梅だと思いました。120分(2時間)を超えるとかなりの長丁場、かといって90分以下だとあっさりしている、時間的には少々物足りない気もします。そう考えると、105分は90分より15分多く、120分より15分少ない、ちょうど中間です。

実際の上映時間は2時間15分もあって、その内訳は映画本編と無関係な予告がだいたい10分ぐらい、105分が本編、残りの20分程度が上映前挨拶とアフターライブでしょうか。現代はYouTubeのショート動画や、映画やアニメを倍速で視聴する若者がいるなど、どの業界でもとにかくコンテンツを短時間で消費したがる傾向にあります。

このトレンドを考えると、3時間越えの長時間の映画は敬遠されるし、できるだけ短くした方が多くの人にとってありがたいのかもしれません。しかし短すぎても伝えたいテーマを収めるだけの尺がなくなってしまうし、それでは映画として提供する意味も薄れてしまいます。なので本編の上映時間が105分なのは、長すぎず短すぎずの良い具合に調整されていると思います。

サブタイトルから漂うネガティヴなイメージ

この映画のタイトルは「劇場版プロジェクトセカイ 壊れたセカイと歌えないミク」です。このタイトルが発表されたとき、私は不安な気持ちになりました。『壊れたセカイと歌えないミク』、どちらもネガティヴなイメージを想起させます。プロジェクトセカイのキャッチコピーは「一緒に歌おう!」ですが、こんな感じの爽やかで青春感あふれる明るいサブタイトルでも良かったのではないでしょうか?これにも制作側の意図があるのではと思いました。

ネガティブなイメージは不安を煽りますが、それにより観客の注意を引きます。「壊れたセカイって何?」「ミクちゃんが歌えないって?」「一歌たちは大丈夫なの?危険な目にあったりしないか心配!」。そんなふうに「物語がどうなるのか気になるように」する効果があります。角が立たない、あっさりとしたプレーンなサブタイトルが悪いわけではないですが、このタイトルの方が観客の注目を集められます

また、プロセカの作風が明るく楽しいだけでなく、辛く悲しいことも描くのも理由の一つでしょう。辛く悲しい描写があったとしても、最終的にプロセカのキャラクターたちはその困難を乗り越えてハッピーエンドになるだろうとはわかっているのですが、どんな問題や事件が起こるのかお客さんの好奇心を刺激するのではないでしょうか。

2つのタイトルロゴを比較してみても、やはり映画のために新しく作った物のほうがより伝えたいテーマの雰囲気にマッチしています。

プロセカを知らない初音ミクファンや新しいお客さんでも楽しめる

プロセカファンに向けた内輪ウケを狙っただけの作品ではなく、プロセカを知らない人たちも楽しめる作りになっています。もちろん原作ゲームの小ネタも沢山仕込まれているので繰り返し鑑賞するファンへのサービスもありますが、もしこの映画がファンに向けただけの作品なら、もっと原作ゲームのオリジナルキャラクター達の出番を増やすはずです。

しかしこの映画では、映画で初登場する無銘のモブキャラクターたちの悲しみや苦しみについても描かれています。既存キャラクターの描写を削ってまで彼らにリソースが割かれているのは、新規のお客さんが見やすいようにとの意図もありそうです。

また2023年に公開された各ユニットのダイジェストムービーの存在も、この映画で初めてプロセカに触れる方々にとって有益なコンテンツです。制作陣もこの映画と同じ人たちで、作画も一貫しているし、ダイジェストアニメーションから自然な形で違和感なくシームレスに映画に接続できます。

こちらのダイジェストアニメーションは、5ユニットを合計してもテレビアニメ1話分の時間で鑑賞できるので映画の予習としては敷居も低いかなと。プロセカファンは、プロセカをよく知らない友達を映画に誘うときはこちらのムービーだけでも視聴を勧めておくと良さそうです。

5ユニットを切り分けて描写した理由は?

映画の構造として面白いのは、5ユニットそれぞれで切り取っても映画として成立することです。たとえば映画の初めから終わりまでLeo/needだけの視点に絞って、Leo/needのキャラクターたちだけで映画を撮ったとしても、物語の大筋として不足する情報は何もないし、全く齟齬なく話が成立します。

これが成り立つ理由は5ユニットそれぞれの分離が徹底されているからです。たとえば、映画終盤に壊れたセカイで「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」と会話するシーンでも、各ユニットの4人からは他の4ユニットは人影のようになっていて視認できていない状態です。

5ユニットをしっかり切り分けて描いた理由はなにが考えられるでしょうか?まずは原作ゲームがそう描かれているから、なのも理由の1つでしょう。プロジェクトセカイでは5ユニットそれぞれのセカイは独立しており互いに干渉しないし、各ユニットのメンバーは別ユニットの人たちに自分たちのセカイにいるヴァーチャルシンガーの存在もバレないように隠しています。今のところは、5ユニットはそれぞれ自分たち以外の4ユニットのセカイがあるとは認知していません。

また、パンフレットには「映画の制作が決まったのが2021年で、3年半後に原作ゲームの物語がどれだけ進んでいるかわからなかったから」と言及されているので、メタ的に考えれば制作の時期的な都合上、ユニットの枠を超えた交流(以降、「ユニット越境」と表現)を描けなかったのも理由の1つでしょう。

たとえば放課後にみのりとランニングしていた遥が一歌とぶつかりそうになったシーンでも、そこまで親密に絡んでいなかったですよね。ゲーム内のストーリーが進めば、一歌と遙は下の名前で呼び合うぐらいに仲良くなりますが、この映画ではそこまで交流が進んでなさそうでした。

もちろん、モモジャンの愛莉、雫と、ニーゴの瑞希がショッピングしているシーンがあったり、天馬兄妹や日野森姉妹、東雲姉弟や瑞希と類が喋っているシーンもあるので、個々人ではユニットの越境はされているのですが。

さらに、ユニットごとに人間関係を絞って描かないと映画の尺が膨大になってしまいます。週1ぐらいの頻度で更新される原作ゲームのイベントシナリオでは、1ユニットごとに1時間ぐらいのボリュームがありますが、これをそのまま映画でもやってしまうと単純計算で5時間になります。

1ユニットごとでもこの量なので、さらにユニット越境まで描いてしまうと、どれだけ時間が足りなくなるかは自明ですよね。パンフレットにも似たようなことが書いてありました。パンフレットには制作陣の貴重な情報が沢山書いてあるので、迷ってる方がいらっしゃったらぜひ購入をお勧めします。前述したように、ファン以外の新しいお客さんにも楽しんでもらうなら、まずは基本の5ユニットに人間関係を絞った方が伝えたいテーマは描きやすいでしょう。

プロセカのキャラクターではなく初音ミクに焦点を当てた利点

この作品はプロジェクトセカイの映画ですが、「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」が5ユニットそれぞれのセカイやメンバーと関わっていくお話です。もちろん原作ゲームの人間キャラクターたち20人も主役ですが、物語の中心にいるのは「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」です。

たとえば5ユニットにはそれぞれ一歌、みのり、こはね、司、奏と、ユニットのリーダー的な存在がいますが、彼女たちに「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」を担わせても良かったのではないでしょうか?5ユニットの切り分けから話を続けますが、これに関しても映画を制作する途中で原作ゲームの物語がどれだけ進むか未知数だったり、キャラクターが20人と多いので映画の尺が足りないのも大きな理由でしょう。

加えて、やはり5ユニットそれぞれがお互いのセカイを知らずに物語が進んでいくプロジェクトセカイの特徴が「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」を物語の中心に据えた大きな理由だと思います。たとえば、一歌をこの映画の中心に据えたらどうなったでしょうか。一歌個人の苦悩を扱い、それを解決していくとしたら。それはすでに原作ゲームでも描かれているし、今後の原作ゲームでも継続して描かれます。

何より、他の4ユニットが一歌と交流しながら課題を解決するのがとても難しいはずです。これまで述べたように、他の4ユニットは「学校のセカイ」を知らないし、一歌がセカイと関わりのある人物だとも知らないからです。1ユニットを主役にした映画だったら問題ないですが、5ユニット全部を描こうとなると実現不可能です。

とすると、5ユニットすべてに干渉できて、しかも原作の設定を崩さずに整合性を保ったまま活躍できるキャラクターが、この映画の中心人物として最も最適なのではないでしょうか。まさに「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」がそれに相応しいキャラクターです。

パンフレットに書いてありましたが、この映画の企画段階でP.A.WORKSさんから「原作とは違うミクがひとりいて」とアイデアがあったそうです。運営型のゲームで毎週のように物語が進むことや、キャラクターの数が多くかつ世界設定が複雑であることを考えると、この映画は最初の企画の時点で最大級の課題をクリアできていたのではないしょうか。

「初音ミク」を物語の中心にした結果、「初音ミクは知っているけど、プロセカは知らない……」みたいなお客さんにとっても映画を見るハードルが下がります。さらに、原作で使いたい物語のネタを消費せずに済みました。

プロセカのシナリオライターさんたちは非常に優秀なので、いくらでも物語を生み出せるかもしれないですが、とはいえ物語やアイデアは有限です。「閉ざされた窓のセカイの初音ミク」の葛藤や問題、それを解決する物語にしたことで、原作ゲームに登場する5ユニットの話のネタを温存できたとも言えるのではないでしょうか。

今どきほぼ全部手描きのライブシーンはあまりに豪華、プロセカファンは恵まれすぎ

1週目の記事でもさらっと触れましたが、プロセカファンは自分たちがどれだけ恵まれているか自覚してもバチは当たらないと思います。別にプロセカの運営に過剰に感謝しろと言ってるわけではありません。プロセカだってこれまで何度も炎上してきましたし、どの作品の界隈だって大なり小なり問題や事件は起こっているわけですから。

筆者はちゃんと文句を言うべき派なので、それについてとやかく言うつもりはないです。事実、当初はこの映画のデジタルスタンプラリーで星2キャラクターを全員コンプリートするには26回鑑賞する必要がありましたし、あれが炎上したのも仕方ないと思います。

しかし、実際の映画本編のクオリティはどうでしたか?私は相当クオリティの高い作品になったと思うし、今までそれなりにソーシャルゲーム原作のアニメ化を見てきましたが、このレベルの作品は滅多にお目にかかれるものではないと思います。特にライブパートはほぼ手書きでしたし、尋常ではありませんでした。

プロセカ界隈にだけいる人はこのライブパートが当たり前に思うかもしれないですが、他の界隈を眺めてみるとそうではないとよくわかります。CG作品が悪いわけではないし、ライブシーンをCGで作られた良作もあります。しかしここ数年でも、カクカク動くロボットのような低品質なCGで描写されたライブシーンの作品をいくつも見てきました。

プロセカはガチャ更新されたらセールスランキングでも上位に入るし、ユーザ数もすごく多いし、とても儲かっているタイトルでしょう。潤沢な資金があるからこそ、これだけのハイクオリティな劇場アニメを作れたのでしょうが、お金だけ沢山使っても品質に繋がってない作品もたくさんあります。この映画のクオリティがこんなに高いのは、お金も勿論ですが制作陣が優秀だったからだと思います。

世の中には、大好きな作品がアニメ化されても自分が思っていたほどのクオリティではなかった、品質の低いものが出されてしまったと絶望している人たちも沢山います。それこそ、この映画で出てきたような「諦めた人たち」のようにです。もちろん今回の映画に満足できない人もいると思いますが、もしこの映画に満足できたのであれば、普段思っている作品や運営に対する不満とは切り分けて、映画にはきちんと高評価をしてくれると嬉しいです。

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