「よい言葉」なんだけど、どうも納得しかねるんだよなぁ…
「神様はその人が乗りこえられる試練しか与えない」って言葉、あるじゃないですか。
この言葉は、何か困難なことに遭遇している本人を励まし、勇気づけるためにある言葉だと思うんですよね。
実際に、困難な立場にいる当人も、そのように考えることで、逆境をのりこえる原動力にしたりする言葉ですよね。
よい言葉だと思います、言葉自体は。
しかし私は、実際に自分が何か大変な時期に、人から「神様はその人が乗りこえられる試練しか与えないって言うから、ガンバレ」などと言われると、
うるせーよ。
てきとーなこと言ってんじゃねーぞ
などと思ってしまうタイプですね(笑)
相手は、善意で、励ましてくれているんでしょうから、まさか私がそんな風に思っているとは想像もしないのだろうなぁ。
この手の言葉を、素直に「ありがとう! そうだよね。がんばるね」(キラキラ)と、励まされる人って実際いるのでしょうか?
まあ、いるにはいるか。
その人が置かれた「困難の度合い」にもよりましょう。
実際に、自分が困難な時期というのは、「なんで私ばっかりこんな目に遭うの」などと、他者と自分を比べて卑屈になっていることもあり、励ましや慰めの言葉が、素直に心に入ってこないということは、あるかもしれませんね。
ただ、私が本当に励まされるとしたら、自分と同じ境遇にいる・いた、もしくは明らかに現在の自分よりも大変な困難を、相手が抱えていると判断できた場合だけ。
そういう人がつぶやく言葉には、ずっしりと質量がある。
だから心に、突き刺さるのではなかろうかと想像します。
そして、逆説的に、こう思う。
そういうひどい目に遭ったことのある人は、その言葉を、安易に人に向けては使わないんじゃないか、とも。
つまり、その言葉を平然と使うのは、幸いにして人生でひどい目に遭ったことがない人か、もしくは想像力が欠如した人、もしくは言葉をなめている人か。
平穏な立ち位置から、平然と放たれるその「善意の言葉」は、
「平和は大事です」「愛や思いやりは大切です」という言葉と同じくらい、薄っぺらく感じる。
そして、そもそも論の話をしますが、この言葉は「本当」なのですかね??
「神様は、その人が乗り越えられない試練しか与えない」のかしら?
ほんとうに?
突如、震災で、家族全員を失った方が、ひとり残され、絶望し、苦しんだ挙句に、一年後に自死なさった。
人が絶望して、命を絶ってしまうような「試練」を、神様は平気で与えてくるじゃないの、しょっちゅう。
それが、この世界の現実ではないの?
だいたい「試練」てなんだよ、えらそうに!!(笑)
これもまた、神様の思し召しですか???
ふざけんじゃねーーよ
……あっ……ちょっとあつくなってしまいました(笑)
***
似たような言葉に「やまない雨はない」「明けない夜はない」などの言葉がありますよね。
これ自体、人間の困難を乗り越える際の勇気となる言葉。
座右の銘にしたっていいくらいの「すばらしい言葉」ですよね。
しかし実際に、若い頃、私自身も人に言われたり、誰かが、落ち込んでいる相手に向かって、「やまない雨はないよ」などと言っているのを聞いたこともありますが、その言葉を聞きながら、
ああ、うぜぇ。
当事者は、「今」つらいんだよ。今、雨を止めてみせてくれよ
と、ただしらけた気持ちで聞いていました(笑)
本来なら「良き言葉」のはずが、ちっとも心に染み入ってこないのですよ。
「浅はかな言葉」に変容して、言葉の意味を失ってしまう。
耳障りの良い言葉は、取り扱い注意なのかもしれませんね。
だから少なくとも、私は、他者に向けては絶対に一生涯使わない言葉として、自分の心の金庫の中に閉じ込めていますね。
金庫の中には、存在しますから、ときどきそっと取り出して、「よし、そう思って頑張ろう」とその言葉に励ましてもらおうと思います。
他者を励ましたり、慰めたりするのって、本当に難しいですね。
「何も言わないでおく」ことも、ひとつの思いやりかなと思います。
そして心の中で、「相手は、きっといつか立ち直る、乗り越える」と信じて待つ。