頼られることと、頼まれることは、どう違う?
あなたは、人から「頼まれること」と「頼られること」を、区別して生きていたりしますか。
もしくは、自分が「誰かに頼むこと」と「誰かを頼ること」も同じく。
どちらも同じ「頼」という漢字が含まれますが、ニュアンスは異なりますよね。
調べてみると、文法的には「たのむ」は他動詞、「たよる」は自動詞。
つまりは、「何かの目的がある『たのむ』」と、「目的の対象がない『たよる』」という違いだと分かり、もやもやが一気にクリアになりました。
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まったく自慢にもならないのですが、私は自分が「ケチ」だと思っていて、人から「頼まれること」がキライです。
家族は例外ですが、その他の人に対し、
面倒くせーな。人に頼むな、自分でやれよ。
と思って生きています。ホント、すみません(汗)
「頼まれる」ことの実例を挙げると
これらの頼み事に対し、実際に受け入れたり、断ったりしながら生きてきたのですが、気軽に「モノを人に頼める人」は、おそらく自分が同じように頼まれても、「いいよ、手伝うよ」と快く言える人なのでしょうね。
私は「時間=命」と考えており、「私じゃなくてもいいこと」で、私の時間を搾取されることにもやもやします。
度重なると、利用されているような気がして、憎悪さえ湧いてきます(笑)
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一方で、「頼られる」例を挙げるとすると、例えば、友人が何か深刻に悩んでいて「ちょっと相談したいことがあるんだけど」と言われた場合。
私は、その人の話を聞くことに時間を割くことは、まったく厭いません。
むしろ、その人が「話すこと」で少しでも気分が晴れたり、問題がクリアになったとしたら、「自分も少しは役に立てた」と思えて「よい時間だった」と満足を感じるでしょう。
満足の理由は、私が何かを「頼まれた」のではなく、私が「頼られた」からだと認識していますが、人によってはこれも「頼み事」になるのかしら?
「頼まれること」と「頼られること」では、同じ時間を、その人のために使うことには変わりないのに、気持ちの満足度が異なるように思います。
人によっては、「どんな頼み事だって声がかかると嬉しい」と、人からの頼まれごとを嬉々として受け入れている方もいらっしゃいますよね。
奇特な方です。
私は、ぶっちゃけますと、
「私そのものを目的にされたい」
そう思って生きているような気がします。
これは私の自己愛によるもので、ちょっと傲慢かなぁ……。
自分がそうだから、相手に対してもそうです。
誰かに接するとき、
「あなたそのものが、目的です」
と思って接しています。
だから友人から「会おう」と誘われるときも、純粋に「私に会いたい」と思って誘ってくれるのが、一番嬉しい。
旅行に行きたいから、その相手に私を誘うとか、行きたいイベントがあって一人じゃイヤだから私を誘う。
そういうのは、やや興ざめなんですよね……まあ、つきあいますけどね(笑)
このあたりも、人によって分かれるんでしょうかね。
そんな私も、かつて職場で働いていたとき、パソコンに詳しい男性社員に、PCトラブルがある度に「助けてくれ」と泣きついていました。
その人は、自分の仕事を止めて、私の席まで来てくれるわけですよね。
「本当にすみません」と、コンビニのお菓子を渡しつつ対処してもらっていましたが、これは「その人を頼っている」つもりだったんだけど、「頼んでいた」ことになるのかなぁ……立派な時間の搾取だったよなぁ。
ちっとは、自分でパソコンの勉強しろよって(笑)
そんな昔話を夫にすると、
「いや、男って案外、そういうことで頼られるのは、嬉しかったりするし、イヤじゃなかったと思うよ」と言ってくれたが、これも人によるんだろう。
何にせよ、私は「頼む派」ではなく、「頼る派」で生きていくだろう、これからも。自分がそうされたいから。
ただ、「頼る」のもほどほどにしないとね(笑)
あなたはどうですか?