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「欲求する男」と「欲求されたい女」の落とし穴
私たちは、皆、互いに「異性の性別を体験できない」というジレンマを抱えながら生きている。
だからせめて、頭の中に歴然と存在する「自分にとっては当たり前だが、異性にとっては不明な感覚」を、どうにかして言葉に変換し、それらを交換し合って、何かの手がかりを拾い、互いに学んでゆくしかない。
そこで今回は、男である夫の「黒歴史」をひも解きながら、女である私が、女の立場から、それを眺めてみた。
少々重めの話になってしまったのだが……これこそ『若い頃に知りたかった』ヤツである。
あなた自身や、あなたのパートナーに照らして、ぜひ読んでみてほしい。
***
いきなりではあるが、夫は、自らの高校時代を評して、
「自分はサルだった。人間ではなかった」と回想する(笑)
夫は15歳のときにつきあい始めた彼女に対し、次のように思っていたそうだ。
「俺のことを好きなんだから、俺の要求や欲求を受け入れることは当たり前だよね?
だって、それが『好き』ってことでしょう?」
夫にとっての初めての、本格的な「彼女」。
高揚し、舞い上がっていた。
夫は、大好きな彼女を全身全霊で求めた。
それは彼女を独占し、彼女を束縛することとイコールだった。
クラスメイトだった彼女が、他の男と話している場面に出くわしただけで、おもしろくない顔をし、言い咎める。
デートの際、彼女がメイクをして現れると「他の男に媚びを売るつもりか」とばかりにメイクを落とさせた。
な、なんて、ちっちぇー男だ……
まぁ15歳だから、特別に許してやるよ!
夫は、サルであった当時を振り返り、こう言う。
「首輪をかけて、彼女のことを意のままにしようとした。まるで、奴隷契約を結んだかのような勘違いをしていたんだよなぁ」と。
首輪て!!
奴隷契約て!!
noteに、そんなワードを書かせないでよ!!
夫の未熟さ・稚拙さに、女の私は心底ゾッとする。
……ただ、同時に
私は同じ女として、複雑な感情におそわれもするのだ。
15歳の彼女の気持ちを推しはかるとき、夫の「全身全霊の束縛」や「100%こちらを向いてくれ」という求愛を、
最初は「喜んでいたのではなかろうか」とも想像するからである。
「私はこんなに求められている・愛されている」
愛の証として、夫の言動を受け止めはしなかっただろうか?
男が「欲求・要求することが、愛することだ」と思っているのだとしたら、
女は「求められていることが、愛されていることだ」と思っているフシがある。
15歳の男が未熟なら、15歳の女もまた、未熟なのである。
身に覚えがあるのだが、女というのは、その男に「気に入られよう」「愛されよう」として、相手の好みの髪型やファッションに、合わせ込もうとしてしまったりすることが往々にしてある。
もちろん、私が「すべての女の代表」のように語ることには慎重にならねばならない。あくまでも「そういう傾向がある」と言うにとどめよう。
「私のこと好き? 私の存在を求めてね?
でなければ、私は存在できないわ」
言葉に書き起こすとひどく陳腐に聞こえるが、
若い頃のわたしは、存在が不確かだっただけに、女の自分を欲してくれる男を強く求め、そんな男たちに依存していた記憶があるのだ。
女のわたしは、男を欲したのではなく、
「欲されたいと、欲していた」のだった。
だからこそ、
男の「こうであってくれ」という暗黙の要求に、自然と応えようとしてしまうわたしが確かにいた。
男の欲求がまず先にあって、はじめて「女」を満たすわたしがいたのだ。
夫が高校時代を振り返り、
「自分の欲求・要求は、まさしくサルの所業だった」と回想するならば、
女の私が「男に求めれたい、独占されたい」と希求する本能もまた、
切ないほどに「メス」由来のものであったと告白しよう。
***
「男には強く、頼りがいのある存在であってほしい」
「女のわたし」が男にそういう理想を思い描くとき、薄皮一枚隔てたその裏側には、常に「身勝手さ」「押しの強さ」が隠されていたんだろう。リーダーシップがあり、頼りがいがある男に惚れたはずの彼女は、結局、夫の「オス由来の身勝手さ」に引きずり回された。
晴れて「人間になった夫(笑)」は、今、振り返って言う。
「何かを要求していたのは、いつも俺ばかり。彼女は何ひとつ、俺に要求をしなかった。そのことに当時、なんで気づけなかったのか……
まるで前世の記憶みたいで、その感覚をリアルに思い出せないんだよなぁ」
「好き同志 = 思い通りにできる」
この無茶苦茶で一方的なロジックに、15歳の彼女は一生懸命つきあった。愛する男のリクエストに応え「気に入られ、求められる女」でありたい。自らの存在を賭けて、応えてみせた。
夫に「かわいいね」と言われたくて、慣れないメイクにいそしみ、なのに夫から「他の男に媚びを売っている」となじられ、メイクを洗い落とす悲しみは、いかばかりだったろう。
だが彼女のそんな切ない想いは、逆にますます15歳の夫を増長させた。
彼女の愛をためすように、自分の自信のなさや不安を解消するために「これでもか、これでもか」と、手綱を引っ張っては、彼女の対応にひとときの安心を得、すぐにまた疑心暗鬼になって首輪を締め上げる、の繰り返し。
こうして書いているだけでも、なんか息苦しくなる。
イヤんなっちまうよ、マジで!
***
そして16歳のある日、彼女から「もう疲れた」と告げられ、夫はフラれた。
支配への限界がきたのである。彼女は、とうとう、女から人間になろうと決意した。
どうして!?
こんなに愛してきたのに?
ずっと「受け入れられている」と錯覚してきた夫は、その突然とも思える「拒絶」に戸惑ったことだろう。
いったい俺が何をしたと言うんだ。
夫は彼女にフラれた後、自分の何が悪かったのか、少しも分からなかったという。
***
「なんてことを、してしまったんだ!」
そう気づいて、愕然とするのは、夫が20代になってからである。
ある日、夫は大学の男友達と接しているときに、ふと思うのだ。
男ともだちとは、ときに対立しても、時間がたてば許し合い、仲間として大切にし、相手を尊重しながら繋がっていられるのに、なぜ愛する女性とは、そういう人間関係を紡げなかったんだろうか、と。
私「ホント、なんでなの!?」
サルだった夫よ、キィキィ鳴いてた過去はともかく、今、人間になったのなら、きちんとした言葉で当時の感覚を説明してみやがれ!!
それが、彼女に対する罪滅ぼしじゃ!
「うーん……本当にどうして自分があんな風だったのか……意味が分からないんだけど……思うのは、男同士の関係って、凸と凸だから、いつでもぶつかりあう可能性があって、自然と配慮しながらつきあってきたんだけど……でも男と女は凸と凹が結びついているわけだから、素のまま対応しても、関係性が壊れるなんてあり得ないと思い込んでたんじゃないかな。
そのくらい、男と女の『つがい』ってのは、唯一無二の特別な関係で、どんな言動も、愛情があれば許されると信じ切っていたんだろうね……要するに、
結局、女性を、ひとりの尊厳ある人間としては、カウントしていなかったってことだよなぁ……」
はい、みなさん、ご一緒に!
クソがっ!!!!
***
少し前の記事で、夫が10歳の頃「かっこいい自分になりたい」と、勉強やスポーツを頑張って、自信を体得してゆく様子を書いた⤵⤵
少しずつ「なりたい自分」にならんとして階段をのぼり、高校生になった夫に、晴れて意中の女性から告白されるという幸運が降り注ぎ、ここからあまい喜びをながく享受するはずであった。
しかし恋愛関係において、夫は偏差値ゼロ、
いや、マイナスだった
彼女を失って、何年も経ってから初めて「かっこいいはずの自分」が、実は最強にカッコ悪くダセー男であったことを思い知るのである。
「相手を愛し、大切にする」とはどういうことなんだ?
相手にどのような態度で接し、どのような言葉を掛け、何をして、何をしないでいてあげれば、相手を愛し、大切にしたことになるのだろう?
夫は、初めて「人間になって」考え始める。
思い返せば、周りを見渡しても、誰もその答えを教えてはくれはしなかった。
最も身近であるはずの、自分の父親から日常的に見せられてきた姿は、妻への思いやりのかけらもない、およそ愛とはかけ離れた一方的なエゴイズムばかり。
自分の妻を「所有」し、意のままに扱ってよいのだと錯覚し、機嫌のいいときには上機嫌で妻を愛で、悪くなれば足蹴にする夫。
「女は、いつでも自分に寄り添い、機嫌をとり、受容してくれる生き物だろう?」
「それが女、それが母性というものだろう?」
いやマジで、書いてて反吐が出る!!(笑)
だが、夫だけがものすごく特殊な家庭で育ったかと言えば、そうではないのだ。DVやモラハラという概念さえない昭和時代の一般家庭に、「夫が妻を抑圧する当たり前」があり、「妻がそれを仕方のないこととして受け入れる当たり前」があった。
そんないびつな関係が、日本中のあちこちで、空気のようにして存在していたのだった。
女性という存在への理解を、根底からはき違えていたことを悟った夫は、その後、はげしい自己嫌悪に襲われる。
もしも地元に帰ったときに、彼女に出くわすことがあれば、土下座して謝りたい。
そう思いながら、ひりつくような大学時代を過ごしたという。
***
「欲求する俺を丸ごと受容しろ」と求める男と、それに応えようとする女がペアになる。
私たちは、死ぬまで男と女であるから、それぞれに、その欲求の残滓が眠っているのを感じながら生きている。
だが私たちがそれらの本能だけに準じて生きるならば、「人間同士のまっとうな関係性・良好なパートナーシップ」は、いつまで経っても絶対に紡がれることはない。
この男女の関係性は、令和の時代になって、少しはマシになったと信じたい……
だが現実には、夫のような幼き間違いに、気づかぬまま40、50代と歳を重ね、自分の中にうごめく支配欲、激しい欲求をただ相手にぶつけ、許容してもらいながら、じいさんになって、くたばる男たちが大勢いるだろう。
そして、女たちも同じである。
自らの主体性を獲得し損ね、従属物であることにどこか安息するような気持ち。男に寄りかかり、依存したいという気持ちを抱きしめたまま、自らの自由がなんたるかをついぞ知らぬまま、悲しくくたばってゆく姿は、かつての私自身である。
I want you.
「あなたが欲しい」
そうやって、人は人を求め、その求愛を喜び、私たちは恋愛を楽しむ。
だが、欲しがることが愛ではないし、
欲しがられることが愛されることでもない。
相手を愛しているから、相手が特別だからこそ、夫は「まっさらな獣の自分」となって、自分の要求や欲求をぶつけた。
それこそが本物の愛だと大きく勘違いしたまま、女性に接してしまった。
そして彼女もまた、夫の無茶苦茶な要求に、毅然と「NO」を突き付ける勇気を持てなかった。
それでも、最後には夫をフッた彼女に、静かに拍手を贈りたい。
信頼し、尊重する。相手が幸せを感じられるよう、寄り添う。
愛情表現、それ自体を言葉にすることはできても
具現化して生きるのは、大人になっても、なかなかにむずかしい。
それでも、だれもが通るであろう道に空いた落とし穴の場所を
こどもたちにそれとなく知らせてあげることは、
令和の時代になっても、まだまだ必要な気もするのだ。
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