小さな哲学とコユビト。
さいきんずうっと、自分にモヤモヤしてる。
ずうっと迷ってる。
いや、さいきんの話でもないか。
父が残した、小さい頃のわたしの映像。
「〇〇ちゃん(自分の名前)は何をみてるの?」
「〇〇ちゃん(自分の名前)は何をしたいの?」
しきりに聞いていた。
母は、自分のことなのにね、本人がわからないのにわたしがわかるわけないわよ、という風に笑っていた。
でも、本来、自分のことや世界のこと、そんなものは曖昧で、不確かすぎるものだ。
そう考えると、歩くのもままならない小さな頃から、自分の存在の脆さを疑問に思って哲学していたんじゃないかと思う。
そして大人になってからも、揺らぐ自己を他者の前で紹介するのに怯えている。
履歴書には、他者からみたら一貫性がなさそうな経歴が並ぶ。
自分にしかわからないこだわり、道筋。
小さな声でもいいのではないか。
暗くてもいいのではないか。
働かなくてもいいのではないか。
大人にならなくてもいいのではないか。
人間にならなくてもいいのではないか。
役割がなくてもいいのではないか。
考えすぎてもいいのではないか。
ただ、存在すること。
なんにもせず、ただ、存在する。
ずっと読みたかった本、永井玲衣さんの「水中の哲学者たち」を読む。
「宇宙のバランスを心配してそのとき虐げられているものや人気がないものほど好きになってしまう」とか、「普遍性と同時に独自性を愛する」とか、なんかよくわかる、気がする。
どうやったら、偏愛と普遍性を両立できるのか。。。
そういえば、こんなことも書かれてあった。
「考えるということは、弱くなること」であると。
「確固たる自己というものが、ひどくやわらかくもろいものになって、心細くなる。対話をするとき、主体は曖昧になる。。。」
そうか、世界が怖くて安心しようとして考えるけど、それって弱くなることだったんだ。
でも、弱くなることが、わたしは好きだ。
どうしても、弱さと対話することに魅了されてしまう。
人形劇団 シュールクリーム一座が目指すのは、対話なのかもしれない。
共感でも闘争でもない対話。
違うことをありのまま受け入れる対話。
どもっても、遠回りしても、わかりづらくてもいいから、本質に少しでも近づこうとうろうろすること。。。
人形で、小さな哲学対話をしたい。
他者の声をきくために、沈黙する。
そのために、人形で対話する。
自分を守るために、まず人形で話してみる。
自分のことばで、ゆっくり話しはじめる。。
不安定な世の中を
人形と一緒に、なんで?と問うてゆく。
弱い心、小さな声、役に立たないものこそ大事にしたい。
ちいさくて、柔らかくて、遅くて、弱くて、優しいものを。。。
「水中の哲学者たち」にも載っていた詩をひとつ。
PS 恋人ってどういうものかわからないけど、小指のようなものだったらいいな。