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パレスチナ問題を学ぶために自治区ベツレヘムの分離壁へ。現地の方は何を語るのか
はじめに
※このマガジンで連載している「僧侶上田隆弘の世界一周記」の記事は2019年の旅を基にした連載になります。ですので今回紹介するエルサレムも2019年段階のものになります。
現在のイスラエル情勢に関しては私も非常に心を痛めています。2019年段階でもすでにパレスチナ問題は激化しつつあり、私もそのことを感じた滞在でした。
前回の記事「エルサレム旧市街の聖地を巡礼~嘆きの壁や岩のドームなど三大一神教の聖地へ」では、エルサレムの街を紹介しました。
そして今回の記事ではこのエルサレム滞在をふまえて、パレスチナ自治区の問題について考えていきます。
では、本編に入っていきましょう。
ベツレヘムとパレスチナ自治区~分離壁に囲まれた町
2019年4月9日。
今日は現地の旅行会社のツアーに参加し、パレスチナ自治区にあるベツレヘムへ向かう。
今回私が依頼したのはパレスチナ側の旅行会社だ。
これまでエルサレムでいくつかのツアーに参加してきたがそれはすべて、ユダヤ系、あるいは親イスラエル側のツアー会社だった。
そのため、ユダヤ人側からの話しか私は聞くことができなかった。
一つの紛争が起こった時、どちらか片方の側からしか話を聞かなかった場合、結果的に一方的な意見を聞くことになる。
「私たちは被害者で、彼らはこんなにひどいことをした」
もちろん、そのようなひどいことは実際に起こったかもしれない。
だが、どうしても一方の側からの話だけではその背景までは掴めないことが多い。
だからこそ私はパレスチナ側の話も聞きたいと思い、このツアーに参加したのである。
さて、イスラエルにはイスラエル人が管理する地区と、パレスチナ人が管理する(ということになっている)パレスチナ自治区というものがある。
パレスチナという言葉自体は私達日本人もよくニュースで耳にする。
そしてそのニュースのほとんどは何か物騒な、危険なイメージを私達にもたらすようなものだ。
「中東は危ない」
このようなイメージが私達には根強く存在する。
だが、これまでイスラエルで過ごしてきて、そのような治安の心配は一切なかった。
もちろん、銃を持った軍人が街のいたるところにいる。
だが、必要以上にそれを恐れる必要もないのだ。
たしかにイスラエル国内でも国境近辺のガザは今でも危険はある。とはいえ全体としては非常に治安は安定しているというのが現状だ。(※2019年当時)
先日エリコに同行してくださったガイドさんによると、「今現在がイスラエル人にとって最も平和な時を過ごせている」とのことだ。
ここは平和なのだ。
ただ、私は疑問に思う。
「どうやってこの平和を実現できたのだろうか」と。
そしてその答えの鍵となるのが、これから向かうパレスチナ自治区なのだ。
まずはじめに、パレスチナ人とは何者なのかということをお話しさせていただこう。
パレスチナ人とはこのイスラエルの地にもともと住んでいた人たちのことを指す。
イスラエルという地名も1948年にイスラエルという国家が成立したからこその名前で、それ以前はずっとパレスチナと呼ばれていた。
つまりパレスチナ人とはユダヤ人がここに住んでいた時よりもずっと前からこの地に生きていた人たちなのだ。
2000年前、ユダヤ人がイスラエルの地にいた時もすべての人口がユダヤ人だったというわけではない。そこには様々な背景を持つ人たちが共に生きていたのだ。
と、いうのがパレスチナとパレスチナ人とは何者かという問いのざっくりとした解説だ。
このイスラエル・パレスチナ問題については高橋和夫著『なるほどそうだったのか!!パレスチナとイスラエル』が入門書として非常にわかりやすいのでおすすめだ。より詳しくはぜひこちらをご参照頂きたい。
さて、今日の目的地はパレスチナ自治区にあるベツレヘム。
ここにはイエス・キリストの生まれた場所と言われる生誕教会がある。
そしてベツレヘムはエルサレムから30分もかからない距離だ。
ただ、そこに行くまでにはイスラエル軍による検問を越えてパレスチナ自治区に入らなければならない。
検問を越えると、そこはパレスチナ自治区。
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エルサレムのような賑わいもなく、どことなく寂れたような雰囲気だ。
ガイドさんとはここで合流する。
ガイドさんはここベツレヘムに住むパレスチナ人。
なぜここで合流するのか。
それはパレスチナ人はこの自治区からそう簡単には出ることができないからなのだ。
ガイドさんも1999年以降、ここを出られていないと言っていた。
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すぐ先にコンクリートの壁が見える。とてもではないが人が越えられる高さではない。
それが向こうの丘までびっしりとそびえ立っている。
これがパレスチナ自治区を囲む分離壁だ。
そしてガイドさんはこう言った。
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「建物の上に黒いものが見えるでしょう。
あれは水をためるタンクです。
エルサレムの街であのような黒いタンクを見ましたか?ありませんでしたよね?
そうです。私たちには水を手にする自由もありません。
イスラエルによってそれも抑えられてしまっているのです。
だからこうして自分たちで水を用意しなければならないのです。」
唖然とした。言葉が出ない。水も少ないパレスチナという土地で、こうもわかりやすい形でパレスチナ人は首根っこを押さえつけられているのか・・・
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町に向かって歩いて行く。
すると分離壁がすぐ目の前に迫ってきた。
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これが間近で見た分離壁だ。
壁には落書きやアートがびっしりと描かれている。
バンクシーの絵で有名になったのもこの壁だ。
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人口の多いベツレヘムの街をぐるっと囲むように建てられているのがこの分離壁だ。
パレスチナ人はこの壁の中に完全に閉じ込められている。
目の前を壁で覆われ、外の世界を見れなくなった世界に押し込まれた生活・・・
私には想像もつかないような世界だ。
パレスチナの人は一体毎日をどんな気持ちで過ごしているのだろう・・・
そして歩きながらふと思い立ち、嘆きの壁の時と同じように、壁に手を当ててみる。
だが、それはただの冷たいコンクリートの壁だった・・・
紛争地パレスチナ自治区のベツレヘムを歩く~難民居住区と分離壁、平和とは
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ベツレヘムの街を壁に沿って歩く。
このツアーではパレスチナ難民が住む難民キャンプを訪れることになっている。
難民キャンプに行くのは今回が初めてだ。
テレビで見るような悲惨な光景を私は目の前にすることになるのだろうか・・・
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この先に難民キャンプがあるそうだ。
壁沿いの道をガイドさんと共に歩いて行く。
ふと、ガイドさんが足を止め、かがんで何かを拾い上げた。
見たところ、細長い鉄くずのようだった。
「これは手投げ弾のピンです。わかりますか?ここから私達パレスチナ人に向けて手投げ弾が投げられたのです。(※筆者注 おそらく催涙弾のことではないだろうか)」
・・・そんなものが道端に普通に落ちているという現実。
そしてそのような鉄くずはよく見てみればそこら中にあることがわかった。
弾丸が入っていたケースも転がっていた。ここで銃が発砲されたということか・・・
そんな道を歩いていると視界が開けてくる。
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ここから先が難民キャンプだ。
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キャンプというとテレビで見るような、粗末なテントにびっしりと難民が肩を寄せ合っているというイメージがあったが、ここはしっかりとした建物が並んでいた。
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寂れていた通りではあったが、そこには普通に生活している人たちがいた。
想像していた難民キャンプではなかった。
だが、ここに住んでいる人たちは皆、故郷を追われた人々なのだ。
ガイドさんは言った。
「イスラエル人は『2000年前に我々はここに住んでいた。だからこの土地は我々のものだ』と言って、私達パレスチナの人々を強制的に追いやった。
私達だってこの地にずっと住み続けてきたのです。それなのに突然やってきて、武力で我々が住んでいた土地を奪いとっていった。
これはおかしいことでしょう。」
「この建物が出来た時も、私たちはそんなものが欲しかったわけではなかったのです。
私達はただ、故郷に安心して住んでいたかっただけなのです。
もしこの難民キャンプに住んでしまったら、ここに生活の場が移ってしまうことになる。そうなってしまえば先進国は、ひとまずこれで問題は解決されたと手を引いてしまう。
それでは問題は本質的に解決されずに据え置かれることになるだけだろうと私達は思っていたのです。
そして、現実はその通りになりました。」
ガイドさんの言葉は力強く、同時に怒りや悲しさ、寂しさを感じさせるような声で私達にここでの出来事を伝えてくれるのであった。
そして、イスラエルの平和はどうして成り立っているのか。
その答えもガイドさんは教えてくれた。
「見ての通り、私達は分離壁に囲まれています。私達は閉じ込められています。向こう側には行けないのです。
それに経済的な格差もあります。こちら側でいくら働いても、向こう側とは物価が違いすぎます。給料だってお話になりません。
イスラエル軍は私達を分離し、力で押さえつけています。
閉じ込められた私達には何もできません」
これはイスラエルでユダヤ人のガイドさんが言っていたことと重なる。
「私達は壁を作り、悪い人や悪いものが入ってこないようにしました。
それまでは悪い人達がこちらに入り込み、テロや争いが発生し、罪もない多くの人が命を落としました。
壁を作ったことで私達は平和を手にすることが出来ました。
今ではテロもほとんどありません。治安もとてもいいです。」
平和とは一体何なのだろう。
私にはもうわからなくなってきた。
イスラエルが享受している平和は、本当に平和と言える代物なのだろうか。
たしかに治安もよく、欧米人のリゾート地として非常に快適で安心できる街であったのは私も実感したことだ。
だが、その平和はパレスチナの人を壁の中に閉じ込めることによって成り立っている平和だったのだ。
もちろん、すべてのパレスチナ人がテロに関わっているわけではない。
ほとんどの人が自分の故郷に帰りたいという思いでデモを行ったり、行動を起こしていただけなのだ。
パレスチナ人にとってはイスラエル人こそ、「我らの土地を暴力で奪った」者であり、パレスチナ人は自分達を被害者だと考えている。
しかしその一方でイスラエル人はパレスチナ人こそ「私達の平和を脅かす」者であり、私達は自分たちの身を守るために壁を作ったのだと考えている。
壁を作ることで新たなテロを防ぎ、罪もない人々の命を守るのだとイスラエル人は言うのだ。
さあ、私達はこれをどう考えたらいいのだろうか。
どちらの言い分も否定できない。
昨日ヤド・ヴァシェム(エルサレム・ホロコースト記念館)で出会ったガイドさんはこう言っていた。
「ユダヤ人は常に大きな矛盾の中で究極の選択を迫られている。
そしてそれでもどちらかを選び取って生き抜いてきた民族なのです」
巨大な矛盾の中で生きていかなければならない。
それは究極の選択を日々迫られる毎日なのだろう。
ここイスラエルとパレスチナの問題はまさしくそういう矛盾が突き付けられている。
パレスチナ問題はあまりに複雑で根が深い。
第一次世界大戦時のイギリスがこの問題を起こした張本人だ。
だが、それだけに原因を絞るのも単純すぎる。
イスラエルの地はあまりに歴史が古く、そして様々な民族や文明がここに根を下ろし、多くの大国がこの地を巡って駆け引きをしてきた。
もはや解決するのはあまりに困難なほど事態は複雑化しすぎてしまった。
私に出来ることといえば、陳腐な答えかもしれないがそのことを学ぶことしかない。
日本という国で私は生きていく。
だがその一方でこういう状況の中で生活している人達がいる。
では私達日本人はどう生きていけばいいんだろうか。
日本という国をどう見ていけばいいのだろうか。
それを歴史と向き合って考えていくしかない。
私は辛い現実を目の当たりにし、重い足取りで難民居住区を後にするのだった。
私は帰国後パレスチナ問題に関わる以下の本を読みました。
特にオーランドー・ファイジズの『クリミア戦争』では宗教都市エルサレムを巡る大国間の駆け引きが詳しく書かれています。これは衝撃でした。
また、タミム・アンサーリーの『イスラームから見た「世界史」』は書名通り、イスラーム側の立場から見た世界の歴史を知ることができます。私達はどうしても西欧中心史観で世界を見てしまいますが、それとは異なる原理で動くイスラームの世界をこの本では学ぶことができます。
最後のウィリアム・ダルリンプル著『略奪の帝国 東インド会社の興亡』ではイギリスのえげつない外交政策を知るのにおすすめの作品です。なぜ大国インドがイギリスの植民地となってしまったのか、その過程を詳しくこの本で知ることができます。この延長線上にパレスチナ問題があることは言うまでもありません。
ぜひこれらの作品もおすすめしたいです。それぞれのリンク先ではより詳しくその本についてお話ししていますのでぜひご参照ください。
近いのに絶望的に遠い聖地…ベツレヘムの丘とエルサレム新市街
ベツレヘムからの帰り道、私達は見晴らしの良い丘に立ち寄った。
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向こうに見えるのはエルサレムの街並みだ。
ベツレヘムとエルサレムはこんなに近いところにあったのか。
ふとガイドさんが静かな声でこう言った。
「みなさん、エルサレムの街がここからよく見えますね。
あそこを見てください。そうです。金の屋根が見えますね。
・・・岩のドームです。
私達パレスチナ人はほとんどがイスラム教徒です。
私もイスラム教徒です。
ここからは岩のドームが見えます。
・・・でも、私達はそこには行けないのです。」
ガイドさんの悲しそうな「私達はそこには行けないのです」の声があまりに重かった。
この写真にも左上の辺りに小さくだが岩のドームの金の屋根が写っている。
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肉眼だともっとはっきり見えた。
パレスチナ人にとっては、すぐそこに見えるほど近いのに絶望的に遠い。
エルサレムに近づけば近づくほど、そびえ立つ壁は徐々に視界を奪い、最後は行き止まりだ。
見えているのに壁で閉じ込められている無力感、悔しさ・・・
分離壁で閉じ込められた人たちのことを思わざるをえない。
私はこの丘で見た景色を目に焼き付けた。
ガイドさんとはその後検問所の前でお別れした。とても真面目で知識の豊富なガイドさんだった。彼から話が聞けて本当によかった。
その後エルサレムに向かい、16時半にはエルサレムの宿泊先まで帰ることが出来た。
一休みしてから私は新市街の方へ向かって歩き出す。
ここエルサレムに来て1週間が過ぎ、私はこの街に少しずつ慣れてきた。
そして何と言っても、新市街がずいぶんお気に入りの街になってしまったのである。
とにかく清潔で安心で、何より便利だ。
便利さの誘惑には抗えない。
普段の生活とほぼ同じスタイルで過ごすことが出来る。
これは本当にありがたいことだった。
カフェでまったり過ごせる時間が何より心休まる瞬間だったのだ。
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夜になっても治安の心配もない。
食事も安心だし、美味しい。
アラブ人街では恐くて屋台のものはなかなか食べる気にならない。
エルサレムに来たばかりの時はこの街にショックを受けていた私だったが、今ではこの街のもたらす安心感を手放せなくなっていることに気づく。
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そして夕食を食べながらふと思う。
もし今ここでテロが起きて私が死んだら、ニュースではこう伝えられるだろう。
「罪もない人間の命がまたテロリストによって失われることになりました」
だが、パレスチナの現実を見た私は思う。
「私ははたして罪もない人間なのか」と。
パレスチナ人の犠牲の上に、私の安全や平和は確保されている。
たしかに私は直接手は汚していないのかもしれない。
だが、テロリストからしたら同罪だ。私は罪人だ。
彼らにとって、私は死に値する人間の一人だ。
そんなことを新市街の街並みを眺めながらぼんやりと考えていた。
なんて難しい状況なのだろう。どうしてこんなことになってしまったのか・・・
ずっとそんなことを考えていてはさすがに気が重くなる。
だが、私は今イスラエルにいるのだ。しっかりと考えて向き合わなければならない。
こうして私はパレスチナでの一日を終えたのであった・・・
おわりに
この体験からすでに6年近くの月日が流れました。この記事でお話ししたように私はこの時すでにイスラエルの攻撃性を感じ、やがてさらに危険なことになるのではないかと恐れていたのですが、その危惧は現実のものとなりました・・・
イスラエル・パレスチナの問題についてはあまりに複雑なのでこれ以上はお話しできませんが、この記事ではあくまで私が現地で体験し、私個人が感じたことをお話しさせて頂きました。
私自身、この時の体験は忘れられないものとなりました。だからこそ私は帰国後も戦争や紛争について学び続けています。
この記事が皆様のお役に立てましたら何よりでございます。以上、「パレスチナ問題を学ぶために自治区ベツレヘムの分離壁へ。現地の方は何を語るのか」でした。
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