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『往生要集』で地獄を書いた源信のように、私も現代の地獄巡りに戦争の本を読む
前回の記事「戦争と平和、世界の歴史を学ぶためのおすすめ本20選~私達のものの見方を揺さぶる名著を紹介!」では、人間の負の歴史を学ぶためのおすすめ本を紹介しました。
この記事で紹介した本はまさに戦争や虐殺について事細かく解説されています。
そしてこれらの本を題材にして私はメインのブログである【日々是読書】僧侶上田隆弘の仏教ブログで戦争や虐殺に関する連載記事を掲載することになりました。
ただ、これらの連載記事を投稿した当初、次のようなお言葉を頂くことも多かったことも事実です。
「戦争のことや大量殺人ばかりで読むのもつらくなってきました。なぜそこまでやらなければいけないのですか」
たしかに読んでいてつらい部分があると思います。ですが、記事を書いている私もつらいのです。
この記事を連載していた数カ月、ソ連史と独ソ戦、虐殺関係の本をずっと私は読んでいました。全体主義の恐怖、いつ殺されるかわからない日々、極限状態における人間の混沌、戦争の悲惨さ、残虐さ・・・
毎日毎日、朝から晩までずっとそれらのことについて考えていました。そして今の世界についても・・・
正直、精神的にかなり追いつめられた時もありました。
ですが、私はやらねばなりません。
宗教を、仏教をもっともっと突き詰めていくには地獄のような世界を記した書物も読まねばなりません。
きっとこういう風に思ってしまうのもドストエフスキーの影響です。『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官の章」が私の宗教観に今もなお強烈な影響を与えています。(詳しくは以下の記事をご参照ください)
ですがこれはあくまで私自身の思いです。他の方が言うことに異を唱えているわけではありません。これはあくまで私個人の抱える問題であり葛藤なのです。これは私にとって解決しなければならない切実な問題なのです。
だから私はやるしかないのです。私にとっては、「そこまでする必要なんてないじゃないか」ということにはなりようがないのです。もし私がそこから目を背けたら、私は私でなくなってしまうのです。
これが私が戦争や虐殺、弾圧を学ぶ理由です。
ただ、もうひとつ、こうも言うことができます。
私が今苦しくとも地獄のような世界を見ようとするのは、「最後に私が納得するためだ」とも。
これはどういうことでしょうか。
これまで様々な宗教や思想を私は学んできました。そして世界の文学や歴史も学んできました。
歴史に名を残した偉人達、あるいは小説の主人公達はそれこそ絶望的な状況からも立ち上がり、人々に勇気を与えてきました。彼らは苦しみながらもその苦しみと向き合い、そこから前へ進んで行きます。
彼らにとって、地獄は終着点ではないのです。彼らは地獄のような現実を経てもなお進み続けるのです。
また、日本でも地獄を描いた有名な方がおられます。
それが平安時代中期に活躍した源信和尚(942-1017)です。
源信の『往生要集』とは?
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源信和尚といえばその著作『往生要集』で有名です。源信和尚は当時の比叡山を代表する学者で、膨大な経典や文献を読破し、その研究成果をこの書物にまとめました。和尚はそれらの文献を通して「地獄とは何か、救いとは何か」を追い求めたのです。
985年に完成したこの書物は日本仏教にとてつもない影響を与えました。きっと皆さんも日本史の授業で一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
この本ではまず地獄の様子が克明に描かれ、その後で極楽浄土の様子や、書名にありますように「浄土へ往生するための要」が書かれていきます。
つまり恐ろしい地獄へと堕ちることなく極楽浄土へ至る道筋をわかりやすく説いたものがこの『往生要集』という書物になります。
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ただ、源信和尚としては極楽浄土にいくための正しい生活や修行法を広めたかったのでしょうが、前半の地獄の描写があまりに恐ろしかったので読む者はこの強烈なインパクトに恐れおののき、地獄にだけは堕ちたくないという風潮が一気に広がっていったそうです。地獄を導入部として書いたはいいもののそちらの印象が強すぎてそこばかりがクローズアップされるという現象が起こってしまったのです。
しかしこうしたことがきっかけとなり日本の浄土教は一気に広がっていったのでした。何がきっかけでどうなるかはわかりません。源信和尚もきっと驚いたことでしょう。(もしかしたら計算済みだったかもしれませんが)
何はともあれ、源信和尚は地獄と向き合い、そこから自身の仏道を歩んでいったのでありました。
また、地獄巡りの様子を描写するというのはダンテの『神曲』も有名ですよね。この作品でも地獄からスタートして煉獄、天国へと向かって行きます。
ちなみにダンテの『神曲』の地獄にはブラックユーモアがふんだんに盛り込まれていて現代の私達が見ても思わずくすっとしてしまう描写が出てきます。
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ここでは聖職売買を犯した罪人が罰せられています。穴の中に逆さまに埋められ、地表に出た足が炎に焼かれているのがこの罪人たちなのですが、挿絵で見てみるとなんとも間抜けなようにも思えてしまいますよね。
たしかに穴の中に逆さに埋められ足を延々と焼かれるというのは想像を絶する痛みを伴う責め苦でしょう。ですがどうも恐怖を感じさせない何かがあるのです。挿絵の影響も大きいのでしょうが、本文を読んでいてもどこかユーモアと言いますか皮肉めいたものが感じられます。聖職売買を犯した罪人たちへの怒りや嘲笑をダンテはここで暗に込めようとしていたのかもしれません。
このようにダンテは地獄の描写を通して現世の問題も描こうとしていたのでありました。
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また、悪魔大魔王が控えるこの地獄の最下層なのですが、なんと!この場所が氷漬けの世界なのです!
私たちのイメージからすると地獄といえば燃え盛る炎のイメージがありますよね。
ですが『神曲』では違うのです。ここはキンキンに冷えた氷の世界で、罪人たちは全身を凍らされて苦しんでいるのです。
私が『神曲』を初めて読んだのは大学三年生の頃でした。今から10年以上も前です。ですがこの地獄の最下層の氷漬けの世界を初めて目にした時の衝撃は今でも忘れられません。
「キリスト教の地獄の一番底は氷の世界なのか!仏教と真逆じゃないか!」と私は仰天したのです。
源信の『往生要集』とダンテの『神曲』はセットで読むと非常に興味深い地獄の対比が見られるのでぜひおすすめしたいです。
さて、話は少しそれてしまいましたが、このように宗教と地獄巡りは強い結びつきがあります。
私にとって独ソ戦やホロコースト、民族虐殺などの悲惨な歴史を学ぶことは、ある意味現代の地獄巡りでもあるのです。その地獄を通して世界を新たに見つめ直していく。そして自分の信じる宗教や道とは何なのかを考えていく。これが今私がやろうとしていることなのです。
先ほど私は、『私が今苦しくとも地獄のような世界を見ようとするのは、「最後に私が納得するためだ」』と言いました。
まさしく、私はこうした地獄を学ぶことで私自身の道を進んで行きたいのです。これは極めて個人的な問題です。私自身が僧侶として歩むためにはこれがどうしても必要なのです。
そういうわけで、私は戦争や紛争の歴史を学んでいます。読んで下さる方にはつらい思いをさせてしまうかもしれませんが、これが私の地獄巡りなのです。
もちろん、私は実際にこの身でホロコーストや虐殺、弾圧を経験したことはありません。本当の意味での「体験」はないのです。しかしだからといって何もしないわけにはいきません。先人たちが残してくれた歴史を少しでも感じとれたらと思い、日々本を読み、考え続けています。
「ならば個人的にやればいいだけで何もブログで書かなくてもいいではないか。」
たしかにそうかもしれません。
ですがこのブログはもはや私にとって、なくてはならないものになっています。ここに書くということの意味が日に日に大きくなっていることを感じています。
本当にここに書けないくらい厳しいものに関してはもちろん自重しています。ですが書ける範囲のものに関しては今までと変わらず書いていきたいと思っています。
長くなりましたがこれが今私の思う所です。
今後ともお付き合い頂けましたら幸いでございます。
以上、「『往生要集』で地獄を書いた源信のように、私も現代の地獄巡りに戦争の本を読む」でした。
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