エルサレム旧市街の聖地を巡礼~嘆きの壁や岩のドームなど三大一神教の聖地へ
はじめに
※このマガジンで連載している「僧侶上田隆弘の世界一周記」の記事は2019年の旅を基にした連載になります。ですので今回紹介するエルサレムも2019年段階のものになります。
現在のイスラエル情勢に関しては私も非常に心を痛めています。2019年段階でもすでにパレスチナ問題は激化しつつあり、私もそのことを感じた滞在でした。後の記事でそのことについても改めてお話ししますが、今回の記事ではまずはエルサレムについてお話ししていきます。
では、本編に入っていきましょう。
2019年4月2日 いよいよイスラエルに向けて出発。
イスタンブール空港では搭乗時刻が出発時間の1時間前となっていた。
普通は出発の30分前と指定されるのにこれは一体どういうことなのだろう。
時刻通り1時間前に行ってみると、それもそのはず、イスラエル行きの便には搭乗前にも厳重なセキュリティチェックがあったのだ。
手荷物の中身を全部調べられる。かなりの念の入りようだ。
これからイスラエルに行くのだという実感が高まる。
万が一にもテロがあってはいけない。
たった一件のテロでも世界中を戦争に巻き込む火種となりかねないのだ。
万が一も許されない。
そういう緊張感をこの手荷物検査で感じたのであった。
機内に乗り込んでしまえば、いつもの機内の時間だ。特に変わったことなどない。
約2時間ほどでイスラエル上空に着く。
さあ、いよいよ来たぞ、イスラエル。
間もなく無事着陸。
イスラエルでの旅がここから始まる。
テルアビブのベングリオン空港。近代的な空港だ。欧米人でごった返している。
空港ターミナルから出ると、熱気を感じる。やはり中東、暑い。日差しが強烈だ。
しかし調べてみると最高気温は20度。
体感よりもだいぶ低い温度だった。
イスタンブールがとても寒かったので体が反応してしまったからだろうか。
さてさて、空港から目的地のエルサレムまでは、シェルートと呼ばれる乗り合いバスに乗って向かう。
こちらがそのシェルート。
空港から直接エルサレム中心地まで行く鉄道はなく、バスもない。
かといってタクシーやツアー会社の送迎サービスを使うとびっくりするようなお金がかかる。
そうなってくると残る選択肢はシェル―トということになる。
シェル―トは宿泊するホテルまで乗せていってくれる上に料金もおよそ2000円と、良心的な価格だ。なかなかよい選択肢のように思える。
ただこのシェルート、定員の10人が揃うまで出発しないという難点もある。
もしその人数が揃わなければ?
どうもこうもない。ただひたすら待つしかないのだ。それ以外に方法は、、、ない。
案の定私は最初の1人になってしまい、残り9人を待つことになってしまった。
30分待っても、誰も乗ってこない。
おいおい、大丈夫なのかこれは? もしかして、みんな使うの避けるようなものなのか・・・・?
45分ほどしてようやく人が集まりだす。一つでもグループが来てくれると一気に人数が増えるのでありがたい。
結局50分ほど待ってシェルートは出発した。
やれやれ、とりあえずなんとかなったようだ。
高速道路のような道をシェルートは爆走していく。
このドライバー、なかなかに運転がワイルドだ。
車線の上を走りながら周りの車をけん制していく。まるで俺のエリアには入らせないぜと言わんばかりの運転だ。
ワイルドなのはこのドライバーだけじゃない。
道行く車がみんなこうなのだ。
車間距離がものすごく近い。その上車線変更も強引だ。
よくこんなので事故起こさないものだと思っていたら、案の定その先で車が事故っていた。
ははは・・・やっぱりそうだよね・・・・・
まあ、私の乗る車が今日に限って事故を起こす確率はものすごく低い。今日までいつもこんな運転しててもこのドライバーは生き延びているんだから今日になって突然死ぬということもないだろう。
そして、45分ほど走るとエルサレムの町に入る。
エルサレムは思っていたよりはるかに大きな街だった。
いくつもの丘が互い違いに折り重なっているような街だ。
平坦な道はほとんどない。丘の斜面に沿ってびっしりと石灰岩で作られた建物が並んで立っている。
住宅地の中をシェルートは進んでいく。どうやらこのシェルート、ホテルだけではなく、自宅までも行ってくれるようなのだ。
事実、私以外のお客さんは皆自宅へと送られていった。シェルートは現地住民の足にもなっているようだ。
私の滞在するホテルは旧市街のはずれ、アラブ人街だ。そのため1番最初に乗ったのに、降ろされるのは一番最後になってしまった。
結局2時間近くシェルートに揺られ目的地のホテル付近に到着。
だが、明らかにホテルじゃないところで降ろされる。
「まっすぐ行って左だ!」
ぎりぎり聞き取れたのはここまでだ。
どうやら一方通行やらなんやらで、この先に行くのは面倒だからここからは歩けということらしい。
やれやれ、最後までワイルドなドライバーだ。
ホテルはまだ見えない。不安が募る。
でも、歩くしかない。
アラブ人街はエルサレムの東側の地区だ。ユダヤ人やキリスト教徒はこちらのほうにはほとんど寄り付かないらしい。
さびれた建物が並び、道にはごみがたくさん捨てられている。
人もまばらだ。
若干の恐怖を感じる。もう夜は近い。暗くなる前に早く着いてしまいたい。
ドライバーの言う通り、左へ曲がる。
あった!看板に赤い文字で「NATIONA」と書いてあるのが見える!
ここが今日から泊まる宿、ナショナルホテルだ。
なんとか無事ここまでたどり着いた。
いきなり面食らってしまったエルサレムであったが、明日からは街歩きもスタートだ。
エルサレムは三大一神教の聖地が集う。
じっくりとその聖地を見て回っていこう。
エルサレム旧市街散策~オリーブ山からの眺めとゲッセマネの園
2019年4月3日。今日は朝からエルサレム旧市街を散策する。
この旧市街のエリアの中に、世界三大一神教の聖地が一堂に会しているのだ。
地図を見て頂くとわかる通り、エルサレムの旧市街は1キロ四方にも満たないくらいの大きさだ。
その中に、歴史上重大な役割を果たす宗教施設が密集して建っているのだ。
今日の散策のスタートは旧市街の東側にあるオリーブ山。
ここから旧市街を眺めることができる。
まずは全体像を把握しようという狙いだ。
まず手前に見える壁がエルサレム旧市街の城壁だ。この壁の先からがエルサレム旧市街にあたる。
そしてなんといっても、圧倒的な存在感を示すのが岩のドームだ。
これがイスラム教の聖地である。
ドームの屋根は金色に輝き、壁面は青のタイルで彩られている。石灰岩の壁しかないこのエルサレムの景色にあって、その金色と青が一層際立っている。
この距離から見ても美しい。
そして写真の奥には高層ビルも見える。
そのエリアは新市街と言われ、モダンな街並みが広がっている。その街並みに私は後々衝撃を受けることになる。
オリーブ山から旧市街の方向へ向かって坂道を下っていくと、緑豊かなエリアにぶつかる。
それがゲッセマネの園だ。
ここには立派なオリーブの木が植えられている。ゲッセマネという地名の由来もこのオリーブの木から来ているそうだ。
ここが有名なのは、新約聖書においてイエス・キリストの身に起きた重要な物語の舞台としてここが登場するからである。
イエスは最後の晩餐の後、この地で神に祈りを捧げた。
そしてもう一つ、このゲッセマネの園こそ、イエスが弟子のユダに裏切られて捕まってしまう場所なのだ。
キリスト教徒にとって、イエスが裏切られ捕えられてしまうというのは決定的に重要な出来事である。なぜならここでイエスが捕えられた後、そのまま十字架での処刑へと進んでいくからだ。
イエスの死がどんな意味を持つのか。ユダの裏切りは何を意味していたのだろうか。
それを話し出すとおそらくそれだけでとてつもない分量になってしまう。
キリスト教に馴染みが薄い私たちにとって、それらは普段なかなか触れることのない問いだ。
だが、キリスト教徒はイエスの死を非常に重く考えている。
なぜイエスは死ななければならなかったのか。
イエスが救い主ならばなぜ自分を救わないのか。
そうした議論の積み重ねが今日のキリスト教につながっているのである。
一番大きなオリーブの木の下に、「Peace」という文字が形作られていた。
世界の紛争地の象徴として語られるイスラエルにあって、この「Peace」がなんとも皮肉に感じられてしまったのは私の見方が歪んでいるからなのだろうか。
宗教は平和を願う。
だが、それは自分の集団内での平和であることが往々にしてある。
私はいつもそのことに苦しむ。
人を救うはずの宗教が人を傷つける理由になるという宗教の負の側面も、私は認めなければならない。
「自分たちが絶対に正しく、相手は悪いものだ。
宗教はそういう風に相手を区別する。だから悪いのだ。宗教なんて必要ない。」
言いたいことはわかる。だが、これは極論だ。
宗教はそんなに単純に割り切れるようなものではない。政治や時代や文化や経済など、あらゆるものが絡んで存在している。
たしかに宗教の言う平和は自分の集団内の平和だという側面はある。
だが、それだけが宗教のすべてではない。
きっとそれをも超えていけるあり方があるはずだ。
時代が経るにしたがって、変わっていくものがあるはず。
私はそう信じたい。
この木の前でもの思いにふけりながら、旧市街に向けて再び足を踏み出すのであった。
※この地を訪れたのは2019年からすでに5年以上の月日が経ちました。この「Peace」の文字は今も忘れられません。
旧市街へ入場。ユダヤ教の聖地、嘆きの壁へ
ゲッセマネの園から旧市街城壁の方へ向かっていく。かなりの坂で、歩くのも骨が折れる。
私がここエルサレムに来る数日前までは、この時期には珍しく、雨が降り続いていたようだ。そのため、いたるところに鮮やかな緑が広がっていた。色とりどりの花も美しい。
城壁沿いに道を進んでいく。
視線を左に移すとオリーブ山がそびえている。
上で紹介した旧市街の写真は、この山の上から撮ったものだ。
ずいぶん急な山であるのがお分かりいただけるかと思う。ちなみに、この山の斜面にびっしりと建てられているのはユダヤ人のお墓だ。
さて、いよいよエルサレム旧市街に入っていく。
旧市街の南側にある糞門。ここから入っていく。
名前の由来はここからごみを外へ搬送していたということらしいが、実際の位置はこことは違う場所にあったとも言われている。
何はともあれ、ここから入っていくとすぐそこに嘆きの壁がある。
だがさすがは聖地、セキュリティチェックがある。
金属探知機のゲートと、手荷物のX線検査を入場ゲートで済まさなければならない。
検査を終えると、嘆きの壁の前の広場に出る。
かなり大きな広場だ。観光客でここもいっぱいだ。この写真の右方向に、嘆きの壁がある。
さあ、進んでみよう。
エルサレムを歩いていると、ユダヤ超正統派の方と頻繁にすれ違う。
黒のロングコートに黒いシルクハット。こめかみの上あたりから伸ばしたもみあげは首のあたりまで垂れていて、伸ばしたひげも印象的だ。
もちろん、ここ嘆きの壁にもたくさんの超正統派の人が祈りに来ていた。
ここが世界の他の場所とは違うということを感じさせる。
そして嘆きの壁に近づくには「キッパ」と呼ばれる小さな帽子のようなものをかぶらなければならない。
「キッパ」を持っていない人はどうしたらいいのか?
ご安心あれ。
「キッパ」を持っていない観光客のために、壁の入り口で無料で貸してくれるのだ。
ちなみに、これがキッパ。これを頭の上にちょこんと乗せるのだ。
そしてうっすら見えているが、この写真の奥の方がもう嘆きの壁だ。
嘆きの壁は目と鼻の先にある。
これが嘆きの壁だ。
平日の昼間だと、人でごった返すということはない。
だが壁に沿って多くの人々が祈りを捧げている。
近くに寄ってみると、超正統派の方たちは壁に手を押し当て、まるでお辞儀をするかのように頭を前後に揺らし続けながら手にした聖書を読んでいる。
特に大きな声で読むというわけでもなく、ぶつぶつと聞こえてくるか来ないかの声で、各々がそれぞれのペースで祈りを捧げているようだ。
私もここまで来たのだ。せっかくだから壁に触れてみよう。
壁に手を触れ、他の人たちと同じように、頭を下げ、目を閉じてみる。
すると不思議な感覚が私の中に起こる。
壁に触れた手を通じて、自分というものの境界が拡張していくような・・・
自分というものが壁に吸い込まれていく、いや壁そのものとつながっていくような感覚。
自分ひとりというよりかは壁そのもの、そして同じく壁に向かって祈りを捧げる人たちとの奇妙な一体感のようなものを感じたのだ。
あくまでこれは私の主観的な感覚にすぎない。
だが、ここがなぜこんなにも人を引き寄せるのかというのがほんの少し感じられたような気がした。
だからこそここは聖地なのだ。
ユダヤ教という文化と歴史を持っていない私ですらこうなのだ。
ユダヤ人にとってこの壁のもたらす宗教的な一体感はどれほどのものになるのだろう。
私には想像できない。
そして壁の右側には仕切りが立っている。
なぜこのような仕切りがされているのだろう。
その答えは、この仕切りの向こう側は女性と子供のためのお祈り場所になっているからだ。
男性と女性は完全に分けられているのである。
仕切りの向こう側はこのようになっている。
ユダヤ人の小学生くらいの子供たちだろうか。多くの子供たちが遠足のような形で先生に率いられてここに来ている。
そして子供たちがここで元気な声で歌を歌っていたのである。
正直、嘆きの壁で嘆いている人を私は一人も見なかった。
嘆き悲しむ声よりも、この嘆きの壁では子供たちの元気な歌声が響いている。
厳かな雰囲気とはまた違った空気が流れていた。
嘆きの壁に触れることで、聖地としての存在感を私は感じることが出来た。
だがその一方でのどかな雰囲気の嘆きの壁も目の当たりにすることとなった。
そしてこの記事の後半で再び嘆きの壁をご紹介するが、次は「安息日の嘆きの壁」という特殊な姿をお目にかける。私もこの安息日の夜の嘆きの壁には度肝を抜かれた。ぜひ引き続きお付き合い願いたい。
さて、次に向かうはイエス・キリストのお墓、聖墳墓教会だ。
イエス・キリストのお墓、聖墳墓教会を訪ねて
嘆きの壁の後は、イエス・キリストのお墓である聖墳墓教会へ向かう。
キリスト教徒にとって、この教会こそエルサレムで最も重要な聖地とされている。
キリスト教の教義において最も重要な教えの一つがイエスの復活だ。
イエスが十字架に架けられて墓に葬られた後、3日目に復活したというのがその教えだ。
イエスが亡くなってから3日目の朝、お墓の様子を見に行くとそこはもうもぬけの殻。
驚くべきことにイエスはその後弟子の前に姿を現し、教えを説いたのちに昇天したとされている。
イエスはあらかじめ、この復活のことを予言していた。
弟子たちはこの復活をもってイエスがまさしく神の子であり、メシア(救世主)であったことを確信する。
ここからキリスト教は生まれてくるのである。
だからこそ、キリスト教の始まりとしてもこの聖墳墓教会は非常に重要な場所と考えられているのだ。
では、その聖墳墓教会へと足を踏み入れていこう。
これが聖墳墓教会の外観だ。思っていたより簡素に作られている。
中は参拝者でごった返していてなかなか前に進むこともできない。
まずは入ってすぐに階段を上り2階のスペースに進む。
ここはイエスが十字架に架けられた場所であるゴルゴダの丘とされていて、十字架の足場となった岩が置かれている。
ここでイエスは亡くなったのだ。
暗くて見えにくいかもしれないが、イエスの十字架上の像が置かれている。
この写真は先ほどのイエスの像の下の様子を写真に収めたものだ。
これは一体何をしているのだろうか。
イエスの足元のテーブルの下は入れるようになっており、床に開いた穴から手を伸ばせばゴルゴダの丘の岩に触れることが出来る。
かなりの時間待つことになるが順番待ちをすれば誰でも触ることができるのだ。
ここまで話してきて、疑問に思われた方もおられるかもしれない。
「ここは聖墳墓教会なのになぜその中にゴルゴダの丘まであるのだろうか」と。
そうなのだ。
私もそのことに疑問を抱いていたのだが、実際は全くの逆だった。
つまり、ゴルゴダの丘に建てられたのがこの教会の始まりで、ゴルゴダの丘の近くにイエスは葬られたのだからお墓もこの辺りにあるだろうということだったのである。
実を言うと、ゴルゴダの丘の場所もイエスのお墓も正確な位置は誰にもわからない。
初めてこの教会が建てられたのも4世紀中頃で、イエスが亡くなってからすでにほぼ300年が経っている。
このころにはすでにゴルゴダの正確な位置もわからなくなっていたのであった。
だが、前のアフリカの記事にも書いたが、事実そのものよりもそこにある物語を信じるかどうかが聖地としては重要なのである。
その意味ではこの教会は聖地としての意味を完全に果たしていると言えるだろう。
そういうわけで、この教会の中にはイエスのお墓とゴルゴダの丘が共にあるのである。
さて、ゴルゴダの丘を終えるといよいよイエスのお墓に向かう。
階段を下りて建物奥の大きなスペースの方へ歩いていく。
するとそこには円形の広場に天井がドーム状の厳かな空間が広がっていた。
円形の広場にドーム状の高い天井を持つこの構造をロタンダという。アメリカの国会議事堂もこの建築様式を採用している。
その空間の中央に鎮座していたのが、イエスのお墓だった。
さすが聖地中の聖地。この広場は人で埋め尽くされている。
ロタンダの荘厳さとお墓そのものの厳粛さが何とも言えない威圧感を感じさせる。
ここも聖域であることを実感させられる。
ここもかなり待つことになるが順番待ちすればこのお墓の中に入ることが出来る。
中は狭い部屋になっており、イエスが安置されていたとされる石の寝台を見ることが出来る。
もちろん、イエスのお骨はこの世に存在しない。
なぜならその肉体は復活し、そのまま昇天したからだ。
お骨が存在しないからこそ、お墓の中まで入ることが出来るというわけだ。
この聖墳墓教会は現在、ローマカトリック教会、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト正教会、シリア正教会が共同で管理している。
聖墳墓教会内にそれぞれの領域があり、そこでそれぞれがミサを行っている。
一つの宗教団体が管理するとなると争いが起きる。
そのためにあえて共存するという道を選んだのだ。
さらに、この聖墳墓教会の鍵を管理しているのはキリスト教徒ではない。
この教会の近くにすむイスラム教徒の家族が800年近くにもわたって代々聖墳墓教会の扉の鍵を管理している。
聖地を巡る争いを避けるために様々な方策を考えているのだ。この聖地エルサレムの管理を巡る歴史についてはオーランドー・ファイジズ著『クリミア戦争』に詳しく書かれているのでぜひおすすめしたい。この本には衝撃の内容が書かれている。宗教都市エルサレムに興味のある方には必読の名著だ。
イスラム教の聖地、岩のドーム
岩のドームの入り口は嘆きの壁のすぐそばにある。というより、嘆きの壁の広場の中にある。
なぜこういうややこしい言い方をしたかというと、岩のドームが嘆きの壁の向こう側にあるからなのだ。
セキュリティチェックを終えると嘆きの壁の上の宙を浮く通路を通って進んでいく。
ここから下を見下ろせば、
斜め上からの嘆きの壁を見ることが出来る。
なぜ嘆きの壁と岩のドームが隣接しているのか、そのことについては後に改めてお話ししていく。
嘆きの壁の向こう側の広場に、岩のドームがある。
この通路を上りきると、広大な広場が姿を現す。
さあ、岩のドームはすぐそこだ。
では、ご覧あれ。これが間近から見た岩のドームだ。
何とも言えない迫力がそこにはある。
中央の金の屋根を持つドームを八角形の回廊が囲んでいるという構造だ。
この円形のドーム型の屋根と八角形の回廊の組み合わせが絶妙だ。
青いタイルを見てみると、実に細かく装飾が施されているのがわかる。
実はこの青いタイル、1561年にオスマン帝国のスレイマン帝により寄贈され修復されたものと言われている。
オスマン帝国のスレイマン帝・・・どこかで聞いたことがないだろうか。
そう、以前の記事で紹介したイスタンブールにある、スレイマニエモスクのスレイマン帝だ。
その時のオスマン帝国がいかに強大だったかがわかるエピソードである。
オスマン帝国はここエルサレムも支配していたのだ。
さて、この岩のドームは7世紀末に作られたと言われている。
7世紀末と言えばウマイヤ朝と言われるイスラムの王国がここエルサレムを占領していた時代。
この岩のドームが建てられたのはイスラム教の開祖であるムハンマドが見たという、ある夢がもとになっている。
ムハンマドはある夜、天の馬に乗りエルサレムの神殿の岩から天に昇り、そこで神であるアッラーのもとへ行くことが出来たという夢を見たという。
イスラム教ではこの夢を非常に重んじていて、コーランにもこのことは記載されている。
たかが夢と侮ってはいけない。預言者による夢は神の思し召しによる夢なのだ。明らかにそこには重大な意味がある。
そしてウマイヤ朝がエルサレムを占領したときに、嘆きの壁に隣接する神殿の丘で発見した大きな岩をムハンマドが昇天した夢の場所とし、岩のドームを築いたのだ。
これが嘆きの壁と岩のドームが隣接する理由である。
ドームの裏側に回ってみる。
どこから見ても美しい。
イスラム教とエルサレムについてはタミム・アンサーリー著『イスラームから見た「世界史」』や井筒俊彦著『イスラーム生誕』、高橋和夫著『なるほどそうだったのか!!パレスチナとイスラエル』などの参考書がおすすめなのだ。興味のある方はぜひ手に取ってみてほしい。
聖地エルサレムの旧市街と新市街のあまりのギャップにショックを受ける
さて、ここまで旧市街の三大一神教の聖地をご紹介してきたが、旧市街内部は狭い道が入り組んだまるで迷路のような構造になっている。
このようなアラブ系の異国情緒たっぷりな小路もあれば、
壁が道の一方にそびえたつような道もある。
油断していると自分がどの辺にいるのか全く分からなくなる。
おまけに、観光客で道は埋め尽くされ、前に進むのも一苦労になるときもある。
そんな旧市街を抜けてこれから新市街へと向かっていく。
正面に見えるのがヤッフォ門。
旧市街の西側にあり、ここを出ると新市街へとつながるため、観光客の出入りも非常に多い門だ。
門を出て少し歩くと広い階段がある。
ここを下ると新市街へと向かう道に沿ってマミラ・モールというショッピングモールがあるというのだ。
まずはここに行ってみよう。
階段を下りると、そこには衝撃の光景が広がっていた。
なんとそこにはあまりにモダンで、あまりに聖地っぽくない光景が広がっていたのだ。
もう一度確認しよう。
ここは先ほどのヤッフォ門から徒歩数分もかからない場所にある。
ましてや旧市街からはたった一本ほどの道しか隔ててないような距離に、こんな現代的なショッピングモールがあるのである。
正直に申し上げよう。
私は、混乱してしまった。
今まで見てきた聖地とは一体何だったのか?
厳かな聖域は私の思い込みに過ぎないものだったのか?
この街は聖地とは名ばかりのただのレジャースポットなのだろうか?
わからない。
わからない。
私は人ごみの中で立ちすくんでしまった。
でも、ずっとこうしているわけにはいかない。
とにかく、歩こう。まずはそれからだ。
どんどんモダンな雰囲気になってくる・・・
考えても仕方がない。とにかく進むのみ。
ここから10分ほどでイスラエル新市街のメインストリートのヤッファ通りに合流する。
ここはトラムの通る、歩行者専用の通りになっている。
まるでヨーロッパ。
非常に開放的で、多くの人がカフェで憩いの時を過ごしている。
頭が混乱してきた。一旦一休みしよう。
私もこの辺りのカフェでまったりすることにする。
とってもオシャレなカフェ。カフェ好きな私にとっても非常に嬉しい作りであった。
さて、コーヒーも飲んだことであるしここで頭の中を整理しよう。
歴史の香り漂う旧市街。そしてそのすぐ隣には現代的なショッピングモール。
そして新市街を歩きカフェでじっくりと外を観察していると、ここに来ている観光客がほとんど欧米人であることに改めて気づく。
あぁ、やはりエルサレムは欧米人のバカンス先であり、人気のレジャースポットなのだろうか。
日本人が京都に憧れを持つように、欧米人にとってもエルサレムはそういう街なのかもしれない。
私の住む函館から京都まで飛行機とバスで4時間ほどかかる。
だがヨーロッパ各都市、特にイスタンブールからならイスラエルまでは2時間少々で行けてしまう。
もしかしたら欧米人にとっては、私たちが京都に行きたいと考えるのと同じような感覚でエルサレムに来れてしまうのではないだろうか。
よくよく思い返してみれば、私もそのことに薄々気づいてはいたのだ。
聖地に来たのに特に祈るわけではなく、ひたすら写真を撮り続ける人たち。
撮影禁止の場所でもカメラを手放さない。
周りを気遣うことなく大声で話し続ける人たち。
聖地というにはあまりにも敬意が感じられない場面がごくごく普通に繰り広げられていた。
欧米からの観光客は歴史的な雰囲気を持つ旧市街で観光をする。
だが、旧市街は欧米の観光客のニーズを満たすような設備を持ち合わせてはいない。
先に紹介したアラブ風の小路しかないような場所に、欧米人が好むような設備は難しいことが想像できると思う。
宗教的な制約もあるため、自由に飲み食いもできない。
だからこそ皆新市街に帰っていくのだ。
モダンで清潔で開放的な見慣れた街並みの新市街。
この街はエルサレムの旧市街の観光のために出来上がった街なのかもしれない。
だから旧市街のすぐ目の前に、私の度肝を抜いたような光景が広がっていたのか。
旧市街観光が終わればできるだけ早く普段食べているおいしいものや快適な環境でゆっくりしたい。
これが観光客の素直な気持ちなのではないだろうか。
アラブ人街の食べ物屋などを見ていると、たしかに欧米人のその気持ちもわかるような気がする。特に私のようなお腹の弱い人間にはなおさらだ。
もちろん、新市街には現地の住民がたくさん暮らしている。
イスラエルの超正統派の人たちのほとんどがこの新市街に暮らしている。
現地住民の生活の場所としてもこの新市街は当然大きな役割を果たしている。
しかし、エルサレムという一大巡礼地、観光スポットという側面も忘れてはならないと私は思った。
告白しよう。
私はこの街に少し違和感を感じたのである。
想像していた聖地と違うものを目の当たりにしてしまったからだ。
だがこの数日後、ここエルサレムは私のそんな気持ちをまたひっくり返すような光景を見せてくれたのである。
やはりエルサレムは特別な場所だったのだ。
安息日の夜に行われる嘆きの壁の祈り
2019年4月5日金曜日。
ユダヤ教徒にとって、毎週金曜夕方から土曜日の夕方までは安息日あるいはシャバットと呼ばれる特別な1日である。
安息日にはいかなる労働もすることは許されない。
これは単に仕事を休むというレベルに収まるものではない。
車に乗ることも料理を作ることも禁止される。
さらにはペンを握ることも、電化製品のスイッチを入れることさえも禁止されるのだ。
正直、どうやってそれで生活が成り立つのか私には想像もつかない。
この安息日の規定はモーセの十戒に記されている。
だからこそエルサレムのユダヤ教徒は厳格にその決まりを遵守するのだ。
では、労働を休んで人々は何をしているのだろうか。
彼らはその時間をお祈りであったり、家族や親しい友人たちとの時間を思い思いに過ごすのだそうだ。
そしてシャバットの夜、すなわち金曜の夜は嘆きの壁でのお祈りはピークを迎える。
というわけで、私もその夜、嘆きの壁に行ってみることにしたのである。
前に見た時とは比べられないほどの人である。
そして黒い服を着た超正統派の方々が目立つ。観光客の姿は逆にまばらだ。
これは嘆きの壁から離れたところからズームで撮った写真だ。
今日は神聖な祈りの日だ。私はこれより先、写真を撮るのを控えた。
それだけ、前回来た時とは空気が違ったのだ。
キッパを被り、私もこの中に入っていく。一般人もここに入ることは許されている。もちろん、邪魔をしない限りという制限はきっとあるのだろう。
恐る恐る、嘆きの壁に近づいていく。
ものすごい人の数だ。近づけば近づくほど、その威圧感を感じる。
ユダヤ超正統派の黒い服装の人たちが大挙してここにお祈りに来ている。
そして不思議なことにこれだけの人数の人がそれぞれ自分のペースでお祈りの言葉を捧げているのだ。
前後に頭を振りながら、手にした聖書を口ずさんでいる。
これだけ多くの人がそれぞれに動き、言葉を発している。
だが、そのばらばらな声の響きがなぜか合流し、ひとつのどよめきのように聞こえてくるのだ。
ばらばらな頭の動きもなぜか一体感があるように感じられてくる。
本当に不思議な光景だ。息を呑んで見入るしかなかった。
そして私はこの嘆きの壁の左端の入り口から、室内のお祈り場所に歩を進めた。
これは暗くなる前に撮った写真であるが、この写真の左側に穴のようなものが見えるだろうか。それが室内のお祈り場の入り口だ。
この室内も壁に向かって祈れるようになっている。壁は建物で外からは見えなくなってしまうが、ずっと先まで続いている。室内に入っても壁に触れることは出来るのだ。
そして室内は広い洞窟のような構造で、奥に進むとドーム状の天井をした長方形のスペースが広がっている。
ここもユダヤ超正統派の方達ですでにいっぱいになっていた。壁に向かって前方からびっしりと並んでお祈りをしている。
壁の反対側が通路になっていて、ここだけかろうじて人が通れるようになっていた。
そこを歩きながらドーム近くまで入り、通路そばの超正統派の方たちの間にお邪魔させていただいた。そこしか立ち止まれる場所がなかったのだ。
ここは室内。しかも洞窟のように声が反響する。
外で聞く祈りの声とはまた違う響きだ。より強く、より太く聞こえてくる。
19時を少し過ぎた頃だろうか、どこからともなく歌声が聞こえてくる。
一人の声だ。
するとそれまでめいめいが自分のペースでしていたお祈りの声が止み出す。
そして一人の歌声が柔らかにこの広場内に響き渡る。
何が起こったのかわからない私は呆然と辺りを見渡した。
すると、突如大合唱が始まったのだ!
これまでそれぞれが唱えていた祈りが急に一つに集約された。
それも今までとは比べられないほどの声量で。
一瞬で持っていかれた。
鳥肌が止まらなかった。未だに何が起こっているのかわからない。
私は突如始まった合唱に圧倒されてしまった!
ここは洞窟のような室内だ。閉じられた空間に祈りの歌が充満する。
その声は「音」というより「物質」のように膨張していく。それはまるでどんどん太くなっていく柱のようだった。
それほどの圧力だった!
歌は徐々にリズミカルに変化していき、思わず体を揺らしたくなるような、そんな曲調に変わっていった。
手拍子をする人も出てきた。
もはや祭りのようだ。歌っている人たちも楽しそうな表情や恍惚の表情を浮かべている。
リズムと共に場の空気もどんどん高揚してくる。
すると、急に満員の群衆が一斉に壁とは反対の向きに体を反転させてきた!
つまり壁のほうを向いている私と相対する形になったのである。
これには面食らった。いや、もはや恐かった!逃げ出したかった!
だが通路はもう人でいっぱいでどこにも逃げ場はない。
おとなしく私は周りに倣って反転することにした。
こうなると私は割と前方側に位置することになる。背中からの圧を感じる。
反転すると同時にさらに祈りの歌は勢いを増していく。
最高潮に達したのではないかというくらい声も大きくなり、リズムを刻んでいる。
この場で感じた一体感はものすごいものであった。
これを毎週ここで繰り返し行っているのかと思うと、私にはもう何がなんだかわからない気持ちになってくる。
でもひとつ、今日分かったことがある。
ここでは、宗教が生きている。
明らかにここは特別な場所であり、神聖な場所なのであろうと。
この数日前、私は旧市街と新市街の街並みを見て、エルサレムは観光地としての側面が強いのではないかと考えざるをえなくなっていた。
だが、この経験を通じて、ここは宗教が生きている地であることを痛切に知ることになった。
観光地としての側面もたしかにエルサレムの一面かもしれない。
けれども、こうして誠実に宗教と向き合う人がこんなにいるのだ。
聖墳墓教会もたしかに観光客でいっぱいだったかもしれない。
だが、真剣な気持ちで祈りを捧げている人は数知れないほどいるにちがいないのだ。
私は観光客の一部を見て、それを全体だと思い込んでしまっていたのだ。
そのことに気づかされたシャバットの夜だった。
私は嘆きの壁を後にし、宿への道を歩いて行った。
暗い迷路のような道。
エルサレムに対する私の思いを表すかのような道だった。
私はまだこの街のことを全然知らない。
エルサレムは私の思っていたよりも、はるかにはるかに奥深くて得体の知れない街だった。
※追記
帰国後この記事をまとめてからyoutubeでシャバットの映像を発見しましたのでここに紹介します。
私はこういう中にいたのです。
この映像は嘆きの壁から少し離れた広場から撮られた映像ですが、私はこの雰囲気がさらに強まる嘆きの壁付近とそのドーム内にいてこの歌と踊りのさ中にいたのです。
その時の衝撃が少しでも伝わって下されば嬉しく思います。
早朝の聖墳墓教会~お堂に響くミサの歌声
安息日の嘆きの壁を訪れた翌日、私は朝早くから行動を開始することにした。
前日の嘆きの壁の余韻がまだ残っている。
目に映るエルサレムの景色がこれまでと違って見えるのは気のせいなのだろうか。
まだ朝の7時を迎えていない時間帯だ。この時間はまだまだ人通りも少ない。静かで爽やかな朝の散歩だ。
今朝の目的地は聖墳墓教会。
先日行った時には観光客でごった返していた、あの場所だ。
突然だが、私には「水曜どうでしょう」という番組の中で発せられた言葉の中でも、特に好きな言葉がある。それが、
「寺は朝」
という言葉だ。
早朝から寺を回らなければならなくなった彼らが、その早朝の寺のすばらしさに感動して発したのが、この言葉だ。
私は観光に行くときにはなるべくこの原則を守るようにしている。
寺を訪ねる時はなんと言っても、心を穏やかにしてゆっくりと味わうのが醍醐味だ。
仏閣や仏像の愛好家の方にはきっとわかっていただける感覚なのではないかと思う。
早朝は観光客もまだ少なく、何より朝の寺は気持ちがいい。心が洗われるような、そんな感覚を味わうことが出来る。とにかく清々しい。
だからこそ、行ける時には出来るだけ朝早くからお寺にお参りに行く。
そして、お寺ではなく教会ではあるが、このエルサレムでも私はその原則を実行することにしたのだ。
朝7時の聖墳墓教会。
人もまばらだ。これは期待できそうだ。
早朝の聖墳墓教会はどんな姿を私に見せてくれるのだろうか。
中に入ると、ミサの歌声が奥の方から聞こえてきた。
前回とは打って変わって、教会内は整然としている。がやがやした声もなく、雰囲気は厳かそのものだ。
明らかにこの前来た時とは違う。
ミサの歌声が聞こえる方に歩いて行く。
先へ進むと、イエスのお墓の前でミサが行われていた。
今日も写真を撮れるような雰囲気ではなかったので、撮影は控えさせていただいた。
イエスのお墓の前で神父さんが儀式を執行しているのが見える。
お墓の前のスペースには左右両方に分かれて椅子が置かれてあり、50人弱の人がミサに参加しているようであった。
その様子は厳かそのものだった。
皆真剣に祈りを捧げている。
ここに集った人たちがどこから来て、何を祈っているのかはわからない。
だが、その祈りの真剣さはひしひしと伝わってくる。
中には涙を浮かべながら両手をぐっと握りしめている女性もいた。
大切な人を失ったのだろうか、それとも誰かの無事を祈っているのだろうか。
外から見ている私にはその心の内まではわからない。
だがやはり、心からの祈りというのは見る者の心を揺さぶる。
ミサの歌声がイエスのお墓のドームに響き渡る。
私は天井を見上げ、目を閉じ、その歌声に耳を傾け続けた。
祈りとは一体何なのだろう。
どうして私達は祈らずにはいられないのだろう。
大切な人を失ったとき、なぜ私達ははこんなにも心を痛めるのだろう。
誰かのことを祈るとき、人はどんなに遠く離れていても祈ることができる。
祈りは空間を超えて届く。
どんなに遠く離れていても、あなたに届いてほしいという一念の力がそこにはある。
私はしばらくイエスのお墓の前で彼らと共にお祈りをさせてもらうのであった。
ミサが終わり、改めてイエスのお墓を下から見上げる。
ドームの天井から太陽の光が差し込んでくる。
私達の祈りが天に届くことを示してくれるかのような光景だった。
昨日に引き続き、今日もエルサレムは私に大きな世界を見せてくれている。
エルサレムは時間によって見せる顔がまったく異なる。
私が今朝見た聖墳墓教会は厳かなる祈りの世界だった。
エルサレムに長い期間滞在することにして本当によかった。そうでなければこのような世界を知ることもなく、私はエルサレムを去ることになってしまっていただろう。
おわりに
以上、エルサレムの旧市街の聖地についてご紹介した。
この他にも旧市街には無数と言っていいほどの宗教施設がある。そのひとつひとつについては今回の記事では紹介しなかったが、イエス・キリストゆかりの地やユダヤ教の教会など様々な場所も私は訪れた。
私は9日間このエルサレムに滞在したが、その滞在中もパレスチナとの緊張関係を感じた。聖地付近には検問があり、道の辻々に銃を持った軍人が立っていた。
次の記事ではそのパレスチナ問題について学ぶために訪れたベツレヘムの街をご紹介する。
ベツレヘムといえばイエス・キリストが生まれた街として有名だが、実は今この街は分離壁によって強制的にパレスチナ人が閉じ込められた土地となっているのだ。
現在起きているガザ戦争にもこの分離壁の問題は直結している。2019年当時、私はこうしたパレスチナの現実を少しでも知りたいと思い、この分離壁について学ぶツアーに参加した。
ぜひ引き続きお付き合い頂けたら幸いである。
続く
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以下の記事はエルサレム以外のイスラエルの聖地を巡った記事です。
こちらも合わせてご参照頂けますとよりイスラエルの雰囲気が伝わると思います。
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