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小説について #1

 日本だったら100年前までは、僕たちは今のような時間感覚を持っていなかったんです。「過去は 過ぎ去っていく。死んだ人は永遠の不在になる」という観念は、実はなかったんですね。 死んだ人は、天に昇ったり地獄に落ちたりと垂直方向に移動するのではなくて、山の向こうに行く とか、海の向こうの島に行くとか、水平に移動するんです。だから、お盆の時に、火祭りをしてい ると、火を囲んでいる人の輪の中に(死んだ人が)いつのまにか入ってくる。もともとのハロウィン もそういうケルトの風習でした。 そういう伝統的な観念とともにあると、死者は失われずに、少し遠くに行くだけです。同じように、 過去も過ぎゆかないんです。過去にあったことは、もちろん過去に過ぎないけれど、今も思い出 せる限りで、「別れた人もそこにいる」わけです。実は僕もそういうふうに生きています。 それは生き霊という概念にも関係します。物理的には遠くに離れて生きている人の怨念が、いま そこにあるように感じられる。近代社会になるまでは、共同体の暮らしの中で、「失われたように 見えて、実は失われていない」というタイプの時間感覚や、それに支えられた死生観が、広く共有 されていました。それをいまの僕たちは失ってしまったので、別れを過剰に悲しんだり、失われた 関係を過剰にリグレットしたりしているわけです。 僕たちがついこの間まで持っていた、人類が長く生きてきた時間感覚や死生観を、できれば自分 のものとしたほうがいいだろうと思います。そうすれば、とてもすてきな恋愛経験があったことが、 不幸の原因になる代わりに、生き延びさせる力にもなると思うんです。そんなことは無理だと思わ ないでください。現に僕はそうやって生きてきています。 こう言いながらも、今ここにいらっしゃる若い方々が、そういう死生観や時間観念を取り戻す可能 性がほとんどないとも思うので、言いながら「残念だなあ」というふうに感じています。

 上の引用は、何時かの取材で宮台真司さんが話されていたことですが、Twitterを眺めていると、偶々タイムラインに流れてきたので読んでみた。読んでみて、先ずぼくの頭に浮かんだのは、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』だった。

 われわれの森のなかでも、三島神社の祭に、「在」 の子供らが、猿や狐や武士の扮装をしてやるお神楽があるね? あれ、われわれの村が造られた際の話を、舞踊劇 に仕組んだものだとされているからね。それもお神楽を始 める前に、扮装した子供らは「在」から神ヶ森に入って斜 めに突っ切る仕方で、三島神社の裏の湧清水のところへ出 て来るでしょう? ギー兄さんの「永遠の夢の時」に とっても、森が重要な場所で、そこは「世界の中心」なん だね。それは谷間と「在」の語り伝えがわれわれに形づく った感じ方だといってもいいけれど、それが世界のいろん な場所での「永遠の夢の時」の考え方に共通した感じ方でもあるわけね。ギー兄さんの手紙を読んでいると、エターナル・ドリーム・タイム 「永遠の夢の時」には、そういう世界の民俗信仰に共通なところと、それを超えて、あらためてそこに戻る というか、独特なところもあるんだなあ。「夢」と「時」 とに加えて「森」というか・・・・・・「時」に「夢」を組み合 せると、その「時」は変幻自在の伸縮性をおびてくるわけね?「時」が、現実の時計から解放される。逆に「夢」が くっきりした奥行きをあたえられる。それは「永遠」のものであるが、現にわれわれが経験しうる「時」のなかの夢 でもある。しかもね、どこで?といえば、それが「在」と 谷間をかこむ「森」で、ということなんだね。ギー兄さん は、いまかれが生きている現実の感覚として、「森」を舞台に見る「夢」の「時」を確信しているわけだ。ギー兄さ んは、村の年寄りたちと同じように、やがては魂が森の高 みの樹木の根方に帰ると信じているからね。それは本当に 以前から、ギー兄さんにははっきりしていることのようだ よ。死んだ後の魂が森と結んでわかちがたいというのなら ば、森のなかの「永遠の夢の時」の規範から、この現 世での生も影響を受けずにはいないよ。つまりギー兄さん は生きている間も、森の「永遠の夢の時」に地下茎を つなげているのだから、オーストラリアの原住民とおなじ死生観といえると思うね。それはすでにわれわれの森から 自由な、ひろがりと深さのある思想だとね、僕は子供の時 からギー兄さんを師匠とする人間だから、それをずっと感じとってきたように思うよ。 

        懐かしい年への手紙 第一部・第六章 懐かしい年 より

 この平行にみるということについて、今回は、考えていきたい。近年のライトノベルでは、消えてしまう、ということが主に描かれている。余命があとこのくらいで、そんな僕と君とのあれやこれどうのこうの...。他者の不在を垂直あるは消失と捉えることには、他者の流動性を認識していないということが何よりも先ずいえることだと思う。
 だからといって、現代の純文学やライトノベルをナルシシズムだと批判したいわけではない。まあ、そういうものも現にあるのだが。ライトノベルに限ったことではない。まずは、ライトノベルについて考えてみたいと思う。ぼくは、ライトノベル自体は評価していない。そこで行われていることは、面白いと思ったりもするが。
 参考にする書籍として、いぬじゅん、という方の書いた、『今夜、きみの声が聴こえる』というスターツ出版文庫から出ている作品を紹介する。


 この本は妹のものであって、ぼく自身、クソラノベと言うほど、こういう類は手に取らない

 適当に開いたページから引用したいと思う。

p124~125

 心の声が言葉になっていくと同時に、涙があふれた。そうだよね、きっと公志も男の子の大切な人も、そう思っていると信じられたんだ。
 そして、私たちは声を上げて泣いた。泣いて泣いて泣いて、お互いの絶望を共有するように抱きしめあって雨に濡れた。
 この悲しみも雨に流れていけばいいのに。それならば、約束したとおり私は笑えるのに.…。
 やがて雨は小降りになり、涙まじりの雨の雫が髪を伝っていった。身体を解いた私たちは、なぜか気恥ずかしさに少し笑った。

 
 気恥ずかしさを感じる「微熱の只中・シラフになる」ことが現に起こるのか…。まあ、それは良いとして、先ずは出てくる言葉を幾つかみていこう。

「そうだよね、声を上げて泣いた、絶望、共有、雨、濡れる、流れる、約束、笑えるのに、気恥ずかしさ」

気になったところを書き出してみたけれど、恐らくここからいえることは、自己の担保をどうするのか、ということなのだと思う。パラフレーズするならば、安全基地をなくしたら、自分はどうなるのだろう、ということなのだと思う。

 声を上げて泣ける、絶望する、雨に濡れる、笑える、それらを行える、思える空間が無くなることに対しての不安。自分が確立しない、宙ぶらりんな状態を受け入れられないのではないか。更にいえば宙ぶらりんな状態と思える内、が無くなることへの不安を抱えているということを描いているのだと思う。

 三島由紀夫は、『不道徳教育講座』で、「やたらと人に弱みをさらけ出す人間のことを私は躊躇なく無礼者と呼びます。」と述べていた。これも、弱みや強みという偏見によって担保される自分「主体」が、危うくなることへの過剰反応のことだと言えるのではないか。

 自分を確定したいがために、偏見を選択していく。そして、相手の持つ偏見を批判してでしか自分を保てないと考えている。謂わば差別化をはかりたいのだ。これをもう少しいうと、homeostasis of the self 「自己の恒常性維持」ということになるだろう。現在の自分を担保するために、妥当性よりも、「~が言っている」「~が言うから説得力があるよねー」「そーゆーコトをいう人は~だ!」という「文脈」と「誰」が言っているのかで、条件反射的に批判する。これは、ネットでよく見受けられるものだが。

 現代の純文学・ライトノベルが描いていることとしては、このようなメンタリティの上にあることがいえるのではないか。

「この冷たい街の風に歌い続けてる 「茫漠感」」 
   ”私”
           
「私たちの世界 「茫漠・安心感」」      
   ”私とあなた・ぼくら”
           ↓
「あなたが居ない/居なければ良かった世界 「茫漠・不安感」
   ”私だけなの?”

 しかし、現時点でのライトノベルへの考え方は、随分と淀んでいるように思う。先ずはライトノベルの定義を見直すべきである。いや、ぼくがこれまでライトノベルと言ってきたものは、「ライト文芸」と呼ばれるものだ。ライト文芸の定義を変える。それでこそ日本文学に成長の余地が見えてくる。
 これまでのライト文芸の行ってきた、作者と作品の間に溝がない状態から、溝がない状態と溝を作ることを平行しつつ、より広域の空間を描くという方向性を考えてみる。ここでは、ラノベ的感性を”あるていど”肯定的に捉える。


・ラノベ的表現 = 励まし

泉子・K・メイナードの『ライトノベル表現論』には、語りと会話がシームレスに展開されているとある。もう一度、『今夜、君の声が聴こえる』の抜粋部を読んでみよう。

心の声が言葉になっていくと同時に、涙があふれた。そうだよね、きっと公志も男の子の大切な人も、そう思っていると信じられたんだ。
 そして、私たちは声を上げて泣いた。泣いて泣いて泣いて、お互いの絶望を共有するように抱きしめあって雨に濡れた。
 この悲しみも雨に流れていけばいいのに。それならば、約束したとおり私は笑えるのに.…。
 やがて雨は小降りになり、涙まじりの雨の雫が髪を伝っていった。身体を解いた私たちは、なぜか気恥ずかしさに少し笑った

  この抜粋に会話はないが、人間と世界との関係が、偶然的であり、「どうしようもない」と割り切っているのが分かる。しかし、割り切ったとしても、世界が流動し、人間が流動し、小降りになった世界で、少し笑った。この作品では、そういう運びにしたらしい。ぼく自身は、少し強引だと思ってしまうのだが。
 偶然性というイメージ「偏見」からくるリアリティを追い求めることで、描写が観念的「統率力の強い状態」になりすぎてしまい、返ってリアリティが損なわれてしまう。いわゆる心身性の欠如というものである。これが、ライトノベルに限らず、現代の文学にある問題なのだと思う。
 表現における偶然性は、つくる、のでなく、思い出す、ことなのだろう。
思い出す = 起こる

 はなしを戻すと、ここから言えることは、文体のシームレスさが映像的「豊富な情報量」に物語世界を想起させることを助長するのではないかということだ。

 先に、ラノベ的表現 = 励まし と書いたが、この映像的であるということ、時間というものからの逃走不可能性・時間の連続性、を誇張的に表現することによって、偶然/必然から偶有性へと転換できるのではないか。そのことで、無理しすぎない、ということがそれらの表現から立ちあらわれる。ある程度にしておく・これで良いのかも


励ましの多声性

文学は自分のみならず他者の流動性を扱う。その中で、他者の在り方は肯定しつつ、思想については批評性をもつ。これは、差異による闘争「コミュニケーション」により、負の衆愚「表向きは開かれの鎖され」から正の衆愚への「鎖さという原理を引き受けこその相対としての開かれ」へと向かう事をさす。      
                        
先日のツイートより


 最後にここで、他者を平行に見る、に話を戻そう。平行というと移動ばかりに気が向きがちだが、軸の値が0であっても構わない。値、0の複数性。
Here, There and Everywhere.



・今、を来たるべき、今、への安全基地にすること 

 ポール・ヴァレリーの足音という初期の詩の最後には、「あなたの足音が私の心だった」と記されている。
 作品を書くときに、悲観的/楽観的、そのどちらかに偏ったものになっていることがあるのではないか。それはそれで、そのような心境の人々を中心に描いているといえば、そうなってしまうのだが。先の図の真ん中、

「私たちの世界 「茫漠・安心感」」      
   ”私とあなた・ぼくら”

、の外がないというのがその原因なのだと思う。
いやいや、外も描いてます!と言っても、描写はしているけれど”私とあなた・ぼくら”のように描いているのか?そこが問題となる。多分、ここをみて、ナルシシズムだと批判する人もいるのだろうが、これはナルシシズムではない。よって、何も批判していないに等しい。”私とあなた・ぼくら”が、悲観/楽観のどちらかに偏った集合であるという描き方は、書き手の情緒に染まって「一般化されている」しまっている。

 互いに関心/無関心をし「人間同士でなくてもいい」、そのつど引き受けた時間を、一時の安全基地にする。我々は、そのようにして生きているのではないか。だからこそ、表現にばかり志向していると、何を描くかよりも、どう描いてやるかに偏ってしまう。作品は書き手を離れ、書き手は無私となる。無私になったからといって、書き手がいなくなるわけではない。何を描くかが、書き手の姿になる。表現は、こういうと極論になってしまうが、自然についてくる。もちろん、試行錯誤をするのが前提だけど。


 
 

 



 

 

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