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冷たい人
『僕が死のうと思ったのは 冷たい人と言われたから』
これは中島美嘉の曲だけれど、聴いていてふと思い出したことがあった。
自分も『冷たいね』と言われることに抵抗があったなぁと。
いや、実際冷たい人間だと思う。
学生時代の四角に囲まれた世界よりも人の目を気にしなくて良くなった社会人。
あんまり気を遣うことも無くなり、気の遣い方も忘れたくらいだ。
コロナ禍にいた自分は酷く冷たい人間になろうとしていたような気がする。
マッチングアプリで、関係の無い人を傷つけてしまった経験がある。愛を知らなかった時代。
それは自分の中で『愛されたい』と裏腹に叫んでいたのではなかったのだろうか。
傷つけることで、相手に気づいてもらうだなんて大それたことをよくぞ求めたものだけれど、それくらい愛情表現は下手だった。
マッチングアプリの人たちにも、対面でも、一時期「冷たいね」と言われていたことがある。
それは至極当然で、自分から蒔いた種なのに、納得していない自分がいた。
何かに凄く引っかかっていた。
言って欲しくない言葉でもあった。
詳しくはこの記事にその出来事が書かれている。
色んな経験をして、気を遣いすぎて、疲れて、気を遣わなくなった今。
果たしてどちらがいいと言われてしまえば極端だと思うが、世間は『気を遣える』方がいいだろう。
しかし、疲れて精神病にかかる人が多い昨今、本当に『気が遣える』のがいいのだろうか?
私は気を遣わなくなってとても楽になった。
周りの人たちも気を遣わない人と思ってくれているから期待されなくてとても楽になった。
でも時たま『気が遣えた方がいいんだよなぁ』と思う時はある。
例えば初対面の人の株をあげようとするならもちろん気が遣えた方がいいし、自分の中で遣えないことが退化に感じたり、この先大人になる時にこのままでいいのかと不安になる時はある。
でも、本当に冷たい人は「冷たい」という言葉に引っかかるのだろうか?
答えは、否である。
だから私は冷たい人になりたい訳じゃなくて、素で冷たくしてしまうことに申し訳なく感じている。
例えば、テーブルに置かれたものを取ってあげるとか、感謝の言葉を伝えるとか、そういった些細なことすら出来なくなっている自分が怖くなっている。
学生時代はそういったことが結構得意だった。
しかし、コロナ禍で人間関係を断食していたら人との関わり方を忘れたように気の遣い方もあの一人暮らしの部屋に置いてきてしまったのかもしれない。
それによって私の暮らしは少し楽に生きられているけど、果たしてそれでいいのか……。
『適度に気を遣える』人間に私はなりたい。