『金曜日の本』
旅先で本を買う癖がついた。
旅先で、とかいかにも色んな所を周ってきた人みたいな言い方をしたけど、大概行き先はいつも京都。そしていつもひとり。
つい本屋に寄りたくなるのが京都、片手に本を携えて歩きたくなるのが京都なのだ。(めちゃくちゃ私見)
そしてこれも私見だけど、街中にある本屋の方がより魅力的に感じる。(京都に限らず)
田舎の国道沿いにある大きめの書店チェーンや、駐車場の広いでかめのTSUTAYA(4割雑誌)(むしろ併設のタリーズとかスタバがメインなTSUTAYA)での本のラインナップや陳列具合は、幾分個性を失いつつある。
街の商店街にある細くて狭い本屋さんとか、中心地の最寄り駅中にある書店は、たとえチェーン店でも、そっちの方が結構面白い出会いが多い印象がある。
もちろん日本全国の書店を訪ね歩いたわけではないから一概には言えない。
だけどやっぱり、人が多く集まる場所にある本屋は「売る」ためのこだわりがより強いんだろうとは思う。
都会に憧れの強い私は旅行先にも人が集まる都市を選びがちなので、一人旅ではおのずと本屋に引き寄せられている。
前回、例によって京都を訪れ、息をするように自然と本屋に入った先で目に留まったのがこちらの本。
吉田篤弘『金曜日の本』。
私は、私の本に対する直感を信じていて、一目惚れ……というと少し違うけど、最初にパラパラめくってみた第一印象で、「ことによると好きになってしまうかもしれない」みたいな感覚を抱いたら、もうとりあえず買うようにしている。
前回の投稿で、人間に恋する時は「好きにならんだろうな」で始まるという内容を書いたけど、どうも本に対しては素直になれるらしい(笑)
本は人間ではないし、高い買い物でもないし、あればあるだけ良いと思っているので、じっくり吟味せずとも手にしてしまおうと思えるのが良いところだと思う。
そして私の直感は大成功をおさめ、この『金曜日の本』は自分にとって特別な本になった。
『金曜日の本』は、作者・吉田篤弘の少年時代の思い出を随筆調に綴ったもので、さまざまな記憶のエピソードが断片的に語られ、降り積もっていく。
平成生まれの私は、1962年生まれの篤弘少年の時代とは何の共通点もないが、それでもなぜか同じ”懐かしさ”を感じずにはいられない、不思議な感覚を覚えた。
例えば次のような。
私はこんな子どもだったよなあ、と思い出す。
たとえ時代が違えども、少年少女たちはいつも同じ世界を生きているのだ。
もちろんみんなが皆、はじっこを好きなわけではないだろうけど。
西日がさす時刻になると本棚と壁の隙間に入り込んで眠った。
勉強机の下にもぐって毛布を敷き詰め、引き出しを全部開けて暗がりを作り、そこに基地を作った。
親戚の集まりからこっそり離れ、暗い階段の隅で絵本を積み上げて読んでいた。
なぜなのか理由はわからない。
何なら大人になった今でも狭くて暗くて端っこの場所を見つけるのが好きだ。みんなといるのは楽しいけど、ひとりになるとほっとする。
喧騒から離れて、ひとり違う世界に迷い込んだような感じがする時の、緊張感とわくわく感が交互にやってくるあの気持ち。
まだ見つかりたくない、そろぼち誰か見つけに来るかな、と思うあの気持ち。
今でも引き続き息づいている。
「同じ本を読むことは同じ場所に何度も行くことで、図書室は学校の中の舞台袖のような場所だった」
このフレーズをみたとき、本を買う前の直感が当たったことを感じた。
なぜこんなにも、子供の頃の記憶を昨日のことのように文章に映し出せるのだろう。
私も同じ本を何度も読むタイプの人間で、なぜだろう?と思っていたけど、腑に落ちた。
帰る場所があるというのは、安心するものなのだ。
そして、『車のいろは空のいろ』〜〜〜!!
わーーー!!!となった(笑)
私もこの児童書が大好きで、挿絵も好きだったし、優しい不思議なワールドにハマって何度も何度も読んでいた。
でも『金曜日の本』を開くまで存在をすっかり忘れてしまっていた。人の記憶のなんと頼りないことか...
白い帽子の中へ、ちょうちょの代わりに夏みかんを置く、爽やかな優しさ。
松井さんのような大人になりたいものです。
『金曜日の本』の中でも、「窮鼠、夜を往く」という短編を特に気に入っている。
なんだか本格的に考察してみたい(できるのか!?)内容なので、また今度じっくり考えながら書いてみたいと思う。
今夜の曲。最近もっぱら、矢野顕子。