赤い登山靴 学んだ勇気
靴箱に、長い間しまったままの登山靴がある。落ち着いた赤色で、2本の靴紐の先がほつれていたが、靴底はまだしっかりして、使用可能な状態である。
いつか履くだろうと保管していたが一向に出番がなく、いつの間にか40年以上もの歳月が流れていた。
靴底には少し土が付着していて、どこの山の土だろうと一瞬思った。
その登山靴を眺めていると愛おしく思え履くあてもないのに、もっと綺麗にしてあげたくなった。
霧島連山、開聞岳、久住山など数人の女友達とよく登山をした。特に同級生三人で登山をすることが多かったと、その登山靴を洗いながら20歳頃の若かりし日を追懐した。
ある春の日に、霧島連山の高千穂の峰に親友と二人で登山をすることになった。早朝、彼女の車に乗せてもらい、2時間程で登山口の駐車場に着くと霧雨が降っていた。
少し気落ちしたが、晴れてくるかもしれないと気を取り直した。
案内所と思しき小さな小屋が目に入り立ち寄ると、温和な顔立ちの50歳くらいのおじさんが一人おられた。
「これくらいの霧雨だったら大丈夫ですよね。せっかく遠くから来たので登りたいのですが‥」
「引き返す勇気も必要だよ」
私たちは、諦めきれず意を決して歩き出した。帽子や衣服が少し濡れても、かえって心地よいとさえ感じる霧雨の中を暫く歩いた。
しかし、空が晴れる気配はなく、私はだんだん不安になり、おじさんの言葉が『引き返す勇気、ゆうき〜』と山にこだましているような心情になった。
親友もおじさんの助言が気になっていたようで、歩を止め二人で少し話し合った。
結論が出るのは早く、山の天気は変わり易く甘く見てはならないのだ、と登山を断念し引き返すことにした。残念だったが、高千穂の峰に背を向けて再び歩き出し、駐車場へ向かい急いで車に乗り込んだ。
車窓から見る風景は、静けさの中で森の木々が霧雨に濡れ風情があった。蛇行した山道を下りきると曇り空が現れ、意気消沈したのも僅かな時間だった。車中ではお洒落、グルメ、次回の登山の計画など会話が弾み楽しい帰路となった。
『引き返す勇気も必要』という言葉は、その日から私の胸に深く刻み込まれた。
その後の人生において引き返すべきか進むべきか迷った時は、いつもその言葉が脳裏に浮かび良い選択をしてきた気がする。