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70点

辻村深月の小説では「ぼくのメジャースプーン」が一番好きだ。
それは、他の小説が感動という点で劣るというのではなく、辻村深月に出会った一番最初の作品だったからだと思っている。
「かがみの孤城」に最初に出会ったならそれが、「傲慢と善良」だったならそれが、一番好きな辻村作品になっただろう。
たとえは悪いが、どんなに美味しいものでも、初めて食べた感動を2回目3回目は越えない、みたいな感じ。

辻村深月が驚嘆に値するのは、その解像度の高さだ。
今回読んだ「傲慢と善良」では、結婚と婚活について、お見合いと恋愛について、恋人と夫婦について、それはいったいどういう姿をしているのか、隅々まで、光の当たらないところが全くないくらいにつまびらかにする。
心のひだを一枚一枚めくりあげて、顕微鏡で観察するように。
普段見ないようにしていること、曖昧にしていること、曖昧にしているからこそなんとなくうまく回っていることの本当の姿、ありのままの形を暴く。
辻村作品が痛いのは、登場人物になあなあな態度を許さないからだ。
これでもかと追い詰め、問い詰める。
これまでどう思っていたのか、いまはどう思っているのか、これからどうするのか。
すべてを白日の下に晒されただけでは済まず、これまで曖昧にしてきたことのつけを理不尽に払わせる。
そして、その曖昧な態度はどこの誰にも覚えのあるものなので、読んでいるあいだじゅう、ずっと自分事が続いてとても痛い。

湊かなえや柚月裕子の作品にも似たような容赦のなさがあるが、辻村作品はもう一歩残酷な気がしていて、傷を抉る、みたいな表現では生ぬるい。
あえて例えるなら、小さなほころびのような傷口に塩を塗り、手を無理やり押し込んでかき回す、みたいな。いや、全然足りないな。それではのたうち回り方が足りない。そのくらい深く抉る。

というわけで「傲慢と善良」を読み終えて、何か言いたい気がしたのだけど、言葉がない。あるけど形にならない。
ひとつ言えるのは、結婚が昔のように簡単なものではなくなったのだ、ということ。
40年前、結婚はもっと身近で、日常的で、誰でもするものだった。

いま、結婚ってすごく難しいんだな。
あの頃の、いい意味でも悪い意味でも、小川の向こう岸に「エイヤっ」ってジャンプするくらいの決意では結婚できないのだ。
こんなものか、と思いながらどうにか作り上げていって、それで何とかなっていた時代は、もうなくなったんだな、と隔世の感。

結婚を決めたとき、私は相手にそんなに高い点をつけていなかった。
相手もたぶんそうだったろう。
優、良、可、不可でいえば、良寄りの可、くらい。
妥協というのとも違う。
なんとなくそういうタイミングだっただけ。
いいタイミングにそこにいた人。
少なくとも、この人でなければ、という強い気持ちはなかった。
でも、そのくらいの緩い期待値でなければ、ここまで来れなかった。
だから、いまの風潮の婚活をしたら結婚できなかっただろうし、そもそも結婚も、付き合いさえもしなかったろう。

世の中の何もかもが、難易度が高くなっている。
普通に生きることも、昔より難しい。




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