一隅を照らすシリーズ#4〜「その時…歴史が動いた」…ベートーヴェン《英雄》
2000年から2006年までに放送されていたNHKの教養歴史番組に「その時歴史が動いた」というものがあった。歴史好きとしては毎回の放送を楽しみにしていたものだ。
進行役は松平定知アナウンサー、NHKニュースのキャスターなどを歴任した「NHKの顔」である。ハンサムな容貌とダンディな声、またユーモアや知性のある語りが人気だった。一昔前のNHK在職時の森本毅郎さんのような華やかさもある方だ。
松平さんはその名前からも推察できるように、徳川家康の異父弟・松平定勝を祖とする伊予松山藩久松松平家の分家旗本の子孫である。寛政の改革で知られる松平定信も血縁にあたる人物、まさに歴史番組にはうってつけのキャスティングだった。番組で松平定信を取り上げた際には自らの出自をマクラにオープニングトークを展開させていたことを良く覚えている。
番組内、テーマに沿って「歴史的な瞬間」を迎える際の松平定知アナウンサーの名文句が「さあみなさん、いよいよその時が訪れます」というもの。これは本当に名調子だと思う。
今回は松平アナよろしく、クラシック音楽における「歴史が動いた」瞬間について。テーマはベートーヴェン「交響曲第3番変ホ長調」、音楽ファンには「エロイカ(英雄)」として親しまれている作品だ。
作品についての基本情報は、定期公演のプログラムノートが最もわかりやすいと思うので詳細はそちらをご覧いただけたらと思うが、ザックリ言えばベートーヴェンの3曲目の交響曲で、ナポレオンの活躍に共鳴しナポレオンに献呈しようと考えていたが、ナポレオンが皇帝に即位したことに失望と怒りを爆発させてその献辞を消して「シンフォニア・エロイカ」というタイトルで初演された作品である。全体は4楽章からなり、演奏時間は約50分だ。この作品は音楽の歴史、オーケストラの歴史にとり重要な作品であるという人は多い。その理由とは一体どのようなものなのだろうか。ベートーヴェンがもたらしたオーケストラ史の転換点について、「エロイカ」を中心にしながら他の作品についても見ていきたい。
交響曲の楽章に「スケルツォ」を導入!
この画期的な出来事は「エロイカ」が最初ではなく、ベートーヴェンの交響曲第2番が歴史的瞬間だ。ベートーヴェン以前、ハイドンやモーツァルトの時代までは交響曲の楽章、特に第3楽章には「メヌエット」という優雅なテンポの三拍子の楽曲を配置する事が多かった。ベートーヴェンの交響曲第1番も「メヌエット」と題されている。もちろんメヌエットが配置されない交響曲もあるが、その代わりに配置される楽曲も比較的緩やかなテンポの楽曲だ。
ベートーヴェンは交響曲第2番の第3楽章にテンポの速い三拍子である「スケルツォ」を配置した。この瞬間が「交響曲における歴史的転換点」のひとつとなる。これまでは優雅なテンポであった中間楽章に、テンポの速いスケルツォを配置する事により、エキサイティングな推進力やフィナーレに向かう勢いを加速させるという効果をもたらしたと考えられる。ちなみにベートーヴェンの交響曲第1番の「メヌエット」は一般的なメヌエットより快活で躍動感があり、テンポも速い。楽譜上では第2番がはしめてのスケルツォの登場ではあるが、交響曲第1番におけるメヌエットは「実質的スケルツォ」といっても良いものだと考えている。
演奏時間、大幅に長くなる!
これまでの交響曲はベートーヴェンの1番、2番交響曲も含めて全体の演奏時間は概ね20から30分程度だ。しかし「エロイカ」は前述したように50分程度の演奏時間を要する。とはいえ「エロイカ」後の4番から8番までの交響曲は約30分前後なので、「エロイカ」の長さは特筆される。ナポレオンに対するプラス、マイナスの溢れ出る感情がそうさせたのかもしれないが、当時の人は物凄く長いと感じたのではないだろうか。今でこそブルックナーやマーラーなど長大な交響曲が作曲され、聴かれているので「エロイカ」はさほど長いと感じないかもしれない。
ベートーヴェンの「第九」は約70分という大作である。「エロイカ」と「第九」はオーケストラ演奏史において「楽曲が長くなった」歴史的転換点となる作品だ。
余談だがCDの収録時間74分は、ベートーヴェンの「第九」が収まる分数としてソニーが決めたことはよく知られている。ソニーの大賀典雄氏とカラヤンが懇ろな関係であったので、もしかしたらカラヤンが指揮する「第九」の演奏時間がそれだったのだろうか?と考える人もいるかもしれないが、事実としてはフルトヴェングラーの「第九」の演奏時間を参考値に決めたという。ベートーヴェンは20世紀のテクノロジーにも影響を与えているのだ。
交響曲に新しい楽器を導入!
ロマン派以降の交響曲には「トロンボーン」が編成に入る事が多い。このトロンボーンを交響曲に初めて取り入れたのがベートーヴェン、「交響曲第5番」いわゆる「運命」がその歴史的瞬間だ。その後「交響曲第6番『田園』」や「第九」で使用される。第九ではご存知のように独唱と合唱が交響曲に入っているが、これもまた交響曲における「声楽の導入」のはじまりだ。
トロンボーンは「神の声」を表す楽器として、それまでも宗教的作品には使用されていた。そのトロンボーンを交響曲に採用したということもまた、ベートーヴェンの歴史の変革者たる所以だ。ベートーヴェンとほぼ同時代の後輩にあたるベルリオーズはハープやイングリッシュホルン、チューバなどを交響曲に採用した。ベートーヴェンの交響曲編成をさらに発展させたのがベルリオーズである。
交響曲に「表題」を導入!
クラシックに詳しい人は「ハイドンやモーツァルトにも表題のついた音楽があるではないか!」と思われるかもしれないが、ハイドンの交響曲の表題については「あの部分が時計っぽいねー」「めんどりの鳴き声みたいだなー」「静かな曲で急にデカい音が来てびっくり」といった感じで、意図的に本人がタイトルをつけてはいない。それに対してベートーヴェンの「田園」はベートーヴェンが田園の風景や嵐の描写、村人の踊りや小川のせせらぎに鳥の声などを音楽化し、各楽章にサブタイトルをつけ、全体的にも「田園交響曲」とタイトルをつけた。タイトルという点では「エロイカ」も作曲者自らが命名したものなので、交響曲にネーミングを付けた作曲家としてもベートーヴェンは「先駆者」という事になるだろう。「田園」においてベートーヴェンが意図した作品構成は、先ほどのベルリオーズの「幻想交響曲」に発展し、またフランツ・リストが「交響詩」というジャンルの表題音楽を創始し、他の作曲家たちも数多くの交響詩を生み出したきっかけともいえる。
緩徐楽章に「葬送行進曲」!?
ベートーヴェンの「エロイカ」の緩徐楽章(ゆっくりなテンポで静かな楽章)に、長閑で癒されるような楽曲ではなく、重く悲しい「葬送行進曲」を作曲した。これは交響曲の歴史においてはかなりインパクトのあるものだ。少し専門的な解説をすると、この楽章は「ロンド形式(小ロンド形式)」と呼ばれる形式で、第1メロディ→第2メロディ→第1メロディ→第3メロディ→第1メロディ…と第1メロディが回帰していきながら曲が進む。通常この曲は協奏曲のフィナーレ楽章や交響曲のフィナーレ楽章に採用される事が多い形式だ。その形式を緩徐楽章、中間楽章に用いたこともまた、ベートーヴェンの変革者としての姿を窺わせる。
最終楽章に「変奏曲」!
「エロイカ」の最終楽章は、ベートーヴェン自身の「プロメテウスの創造物」のメロディを変奏させていく「変奏曲(ヴァリエーション)」という形式をとっている。これ以前は交響曲のフィナーレにこの形式を用いることはなかったので、この点についてもベートーヴェンの革新性を見出せる。ベートーヴェンは「変奏曲の名人」といわれていたそうで、この楽章にもその「名人芸」が感じられる。この楽章もまた「歴史的瞬間」といえる。
ホルン、「オイシク」なる!!
楽器の発展、奏者の技術向上なども理由のひとつだと思うが、オーケストラ作品においてその編成に以前から組み込まれていたホルンが「エロイカ」に至り、ホルンの魅力を発揮できる「美味しい部分」が増えた。例えば第3楽章の中間部(トリオ)ではホルンセクションだけでカッコいいメロディを担当する。メロディだけではない、ホルンの最大の魅力である「ハモリ」を存分に楽しむことができる。これ以前の交響曲においてホルンは「難しいけど美味しくない…」役目ばかりを担っていたが、「エロイカ」では全曲を通じてオイシイ部分が格段に増えた印象を持つ。フィナーレの後半の雄大なメロディも聴きどころだ。是非ホルンの活躍に注目してほしい。もちろん他の楽器も「しっかり美味しい」ことを付け加えておきたい。
「美味しくはなったけど、大変さは変わらないよ…!」というホルン奏者の方々の心の声もなんとなく聞こえてきそうな気もするが…。
そして…その時
「さぁみなさん、いよいよその時が訪れます!」
この名調子に乗せて、僕が最大の歴史的瞬間と思っている部分を紹介したい。
それは「エロイカ」の第2楽章冒頭部分だ。
悲しげなヴァイオリンの旋律を支えるベースラインに注目いただきたい。今までは同じ動きをしていたチェロとコントラバスが違った動きをする。
「違った動き」という点では、これまでの作品でもチェロとコントラバスは「違った動き」をしていたのだが、コントラバスは全て「チェロの動きを補完する」動きであり、なおかつ「チェロの音数のほうがコントラバスより多い」というのが「通例」だった。これは「エロイカ」の第1楽章の最終小節まで、それは当然のことだった。
しかし、2楽章の冒頭で「歴史」が動く。
コントラバスにのみ「装飾音符」が書かれている。「コントラバスの音数がチェロより多くなった」瞬間である。言い換えると、この部分から「コントラバスの独立的使用」が始まった、まさに「歴史的瞬間」なのだ。コントラバスは最低音を支え「縁の下の力持ち」などと言われるが、この瞬間まではチェロに付随して動くという役目だったといえる。もちろん「オーケストラの響きを作り支える」重要な立場であったことは間違いない。その上で、コントラバスはオーケストラの中で「独り立ち」を果たしたのだと胸が熱くなる。これは僕がコントラバスを演奏していたからかもしれないけど、僕にはこの「歴史が動いた」瞬間にいつも心動かされる。
この「歴史的瞬間」を是非会場で目撃していただきたい。演奏後のカーテンコールでコントラバスセクションだけが指揮者に促されて起立し賞賛されることはないだろう。どうか演奏会に足を運ばれる方々には、心のなかでコントラバスセクションに「bravo!」と最大級の賛辞を送っていただけたらと思う。
(文・岡田友弘)
関連演奏会情報
新日本フィルハーモニー交響楽団2022/2023シーズン 「第643回定期演奏会」
歌劇場指揮者として高く評価、楽団員からの信頼も厚いシュテンツ。
ドラマティックなアプローチで1972年結成特別演奏会のプログラムを再現
2022年9月10日(土)14時開演 すみだトリフォニーホール・大ホール
2022年9月12日(月)19時開演 サントリーホール・大ホール
ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」 op.9
Berlioz:Le carnaval romain, op. 9: Overture
ラヴェル:組曲『マ・メール・ロワ』
Ravel:“Ma mère l’oye”, Suite
ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 「英雄」 op.55
Beethoven: Symphony No. 3 in E-flat major, op. 55 “Eroica”
指揮:マルクス・シュテンツ
管絃楽・新日本フィルハーモニー交響楽団
チケット購入、詳細は新日本フィル公式ホームページをご覧ください。
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