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【エッセイ】岩槻①─岩槻と江戸時代の名残─ 『佐竹健のYouTube奮闘記(65)』

 久しぶりに岩槻の方へ行ってみたいと思った。天気もいいから、どこかへ行きたくなったので。

 10日に自転車で戸田駅まで走り、そこから埼京線に乗った。大宮駅で東武アーバンパークラインの船橋行きの列車に乗り換え、岩槻駅で降りた。

 関東城めぐりエッセイ版で、中山道以外のルートについて語ろうと考えていたので、この際だから語ろうと思う。

 東京から埼玉へ向かうルートは、3つほどある。

 一つ目は前に紹介した中山道経由で向かうルート、二つ目は池袋から川越街道を使って川越へ至るルート、三つ目は王子から赤羽を経由して川口へと向かうルート、四つ目は千住から草加へ向かうルートだ。他にも西東京から所沢へ入るルートもあるが、その辺はまたおいおい語っていくことにしよう。

 王子から赤羽を経由して川口へと向かうルートは、岩槻を通ることから、岩槻街道と呼ばれている。この街道は、四つ目の千住から草加へ向かうルート、いわゆる日光街道の脇街道として利用されていた。

 日光街道は千住から草加へと入り、そこから久喜や幸手、古河、小山、宇都宮を経由して日光へと向かうルートだ。また、宇都宮からは陸奥方面へと向かうことから、一部奥州街道と被っている。


 岩槻駅を降りた。ここから岩槻城跡を目指して歩いていく。その途中に時の鐘という場所があったので、そこにも立ち寄ることにした。

 岩槻の街は浦和や大宮ほどではないが、駅の表に大型の商業施設があるなど、ほどほどに栄えていた。


 駅を少し離れると、古風な民家の木の塀が出迎えてくれた。

 近くに「裏小路」と書かれた看板があった。

「裏小路? もしかして、この通りの名前かな」

 そんなことを考えながら、古風な民家の木の塀が見える突き当りの通りを左に曲がって歩くと、小さな公園が見えてきた。

 小さな公園は木の塀で三方を囲われていた。左側の木の塀の隅っこの方には、小さな日本庭園のようなものがある。また、木の塀で囲われていない右側には東屋と遊具があった。

 公園の前にあった案内板を読む。案内板には、裏通り周辺に岩槻藩士の屋敷があったことが書かれていた。

 江戸時代、武士と町民が住む場所は分けられていた。

 江戸の町を例に出して話を進めてみよう。江戸の場合、武家の居住地は今の千代田区の西側や港区、牛込、文京区の辺りに多くあった。対して町人の居住地はというと、今の神田や銀座の辺りに多かった。時代が下り、江戸の人口が増えると、さらに東側の両国や深川の辺りへと広がっていくようになる。もちろん町人が多くいるエリアに武家の屋敷が、反対に武家の多い場所に町人の家があることもあった。だが、大体の認識としては、武家地が西側、町人地が東側にあったという感じでいい。

 岩槻の場合は、裏小路周辺に武家屋敷が広がっていたらしい。古風な街並みはこの名残なのだろうか。それと、町人が住んでいた土地がどの辺りにあったのかも少し気になる。

(やっぱり近世の城下町とかには、こうした古風なものが残っているんだな)

 同時に私は、ふとそんなことを思った。

 条例とかの関係なのか、それとも地域住民の努力の賜物なのか、城下町や古くから人の住まう街には、古風なものが残っている。岩槻の場合は『ちびまる子ちゃん』や『サザエさん』、もしくは明治から昭和を舞台にしたNHKの朝ドラやスペシャルドラマでしか見られない木の塀だった。

 木の塀というものは、風情があっていいものだ。特に長く続く塀は、わびさびを感じていい。おまけに家の木の枝が出ていると、なおいい。その木が桜だったら春を感じるし、柿や栗だったら秋を感じるからだ。そしてそこに小鳥が止まっていると、本当に癒される。

 そんな家に一度は住んでみたい。そう思うことがあるが、庭木や塀の維持費が大変なことになりそうなので、それを考えるなら、今の七畳の家でいい。


 裏通りを抜け、また違う小路に抜けると、右側に小さな空き地が見えてきた。

 小さな空き地には、高く土が盛られた場所があって、その上に鐘楼があった。ここが最初の目的地時の鐘だ。

(おお、立派な鐘だ!!)

 まさか岩槻にこんな立派な鐘突き台があったとは、思いもしなかった。

 時の鐘というものは、もとは時刻を知らせるものとして機能していた。だが、明治に入ると、空砲を打って時刻を知らせるようになったので、次第に廃れていった。有名なものでは、川越にあるものがよく知られている。

 岩槻にあるものは、17世紀の末に岩槻藩の藩主であった阿部正春という人物が建てた。18世紀に改鋳され、現在に至っている。

 その時の鐘が、岩槻にある。この事実だけでも、驚きであった。さいたま市という都市部に、まさか時の鐘という300年以上前の遺物が残っているとは、誰も思いもしないだろう。いや、さいたま市より東京に近い蕨や浦和ですら、古民家や屋敷が残っているという事実を考えると、さもありなんといったところであろうか。

(しかし、絵になるね)

 青い空に時の鐘。とても風情がある。江戸時代の岩槻は城下町だったので、もっと見晴らしがよく、風情があったことだろう。

 私は背負っていたリュックからカメラを取り出し、写真を撮った。同時にスマホでも写真を撮った。


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