【歴史小説】第24話 西行④─出家─ 『ひとへに風の前の塵に同じ・起』
1
風に吹かれて花びらを散らす満開の桜は月光に照らされ、その白さがより一層際立っている。
義清は堤の上を一人歩いていた。
しばらく歩いていると、
「義清」
誰かが自分の名前を呼んだ。毎日聞く聞きなじみのある声だ。
義清は振り返った。
目の前にいたのは、若葉色の直垂を着た清盛だった。弓矢を持っていることから、帰宅中なのだろう。
「覚悟はできたんだな」
「あぁ。院からのお誘いも断ってきたし、最愛の人とは縁を切ってきた。もうこの俗世には未練はない」
「そうか」
「清盛、前お前が、『鳥羽殿で垣間見していた俺のことを見た』と話していただろう? そのとき俺は、待賢門院さまのことを見ていたのだ」
「え……」
驚きのあまり声が出ない。まさか、皇太后と恋仲だったとは。
「俺と待賢門院さまが知り合ったのは歌の会だ。そこで私君 実能公の紹介してもらった。いつも寂しそうにしていたから、心配だった。彼女のことを元気づけるために、言葉を交わし合ったりした。だが、気がついたら踏み込んではいけないところまで踏み込んでしまった。これはよくないと思って断ち切りたかったのが一つ。そしてもう一つは、従兄弟であり、友でもある憲康の死だ」
「憲康って、お前のいとこで、『おれは出家するんだ』って言ってたけど、いつまでも出家しなかったあいつだよな」
「あぁ、そうだ」
義清はうなずいて続ける。
「俺はあいつが亡くなる前日、出家をするなら一緒に出家しよう、と約束した。だが、出家する当日憲康は亡くなっていた。それ以来俺は、忌引きで休んでいたのはわかるだろう? そのとき、あいつが夢の中に出てきたんだ。そして、こう言った。『生きているお前なら、選べるじゃないか』と。だから俺は選んだんだ。憲康が叶えられなかった願いを、俺が叶えるとな。そのために、出家することを選んだんだ」
「そうか」
「今日で、佐藤義清としてこの場で縁を切ることにした。清盛、お前と一緒にいた数年間は楽しかった。さらばだ」
義清はそう言い残し、清盛の前を去ろうとした。
「おい、待て! どういう意味だ⁉ 出家しても、俺たちの関係は切れないだろうに」
桜吹雪の舞う中、清盛は義清を追いかける。
捕まるまいと義清は早足になる。
「待て!」
清盛は追いかけようとしたが、突風とともに花吹雪が巻き起こったので立ち止まり、袖で顔を隠し、目にゴミが入るのを防いだ。
袖をとったときには、義清の姿はどこにもなく、風に揺られる満開の桜花と春の夜の闇だけが残っていた。
2
義清は屋敷へと帰った。
屋敷では、4歳になる娘が、父親の出家のことなど知らずにいつも通り玩具で遊んでいる。
「おかえりなさいませ」
義清の妻はいつもと変わらずに出迎える。
「ただいま」
義清は被っていた烏帽子をとったあと短刀を手に取り、もどりを切り落とした。
「どうしたのですか、突然もどりなんかを切り落として?」
「前々から出家しようと思っていたのだが、決心がついた。お湯とカミソリを持ってきて欲しい」
「は、はい」
事態を理解した義清の妻は、急いで台所へと向かう。
夕食を食べ終え、片付けが終わった後、義清の妻はお湯の入った桶と剃刀が入ったお盆を持って、部屋に入る。
「本当にこれでいいのですか?」
義清の妻は髪を剃りながら訊ねた。
「構わない。俗人佐藤義清の未練は今日捨ててきた」
「本当に覚悟の方はできているのですね」
「あぁ。でも、心残りが一つある」
義清は先ほどの質問に答えたときの迷いのない表情から一転、不安げな表情で言った。
「心残りとは?」
「佳子のことだ」
「あぁ、それなら安心してください。私がしっかり育てます。貴方は貴方の使命を全うしてください」
義清の妻は頼もしげに答えた。
「頼んだぞ」
義清は笑顔で言う。
湯殿で温まった後、義清は墨染の法衣を着替え、首には袈裟と数珠をかけて、娘と妻の前に出た。今から出家をするという事実を知らない人から見れば、徳の高そうな若い僧侶にしか見えない。
「じゃあ、行ってくる」
義清は数年間世話になった妻と幼い娘に一礼して、家を出ようとする。
「行ってらっしゃい」
妻は心配そうに手を振って見送っているときに、
「ちょっと、どこへ行くの⁉」
佳子は握っていた母親の手を離し、小さなかわいらしい足取りで僧形の義清を追いかけてゆく。
義清の妻は、義清を追いかける佳子を止めようとしたが、思った以上にすばしっこかったので、断念した。
佳子は無邪気な笑顔と声で、
「おとうさんどこへいくの?」
普段と違う父親に尋ねた。
だが義清はそれを無視しながら、黙々と進むべき道をゆく。
「ねぇ、おとうさん、どこへいくの?」
先ほどと変わらずに、娘は父親に聞いてくる。
義清は佳子をにらみつけて、
「俺はお前の父親なんかじゃない!」
娘を蹴り落とした。
「きゃっ!」
佳子は甲高い悲鳴を上げたあと、大きな声で泣き始めた。
「いくら出家する覚悟ができてるからって、ここまでしなくていいでしょう?」
義清の妻は怒鳴りながら聞いてきた。
「……」
無言のまま、義清は自分の進むべき道へと進んでゆく。
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